賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦い 秀吉と勝家の対立

清須会議で対立した羽柴秀吉柴田勝家
織田家の家臣たちはそれぞれに文派し、遂に戦に発展する。
敗北した勝家は、妻である信長の妹のお市と共に自害に追い込まれる事となる。

柴田勝家像(個人蔵)

柴田勝家像(個人蔵)
賤ヶ岳の戦いで秀吉と戦い敗北、自害した。

天下統一へ邁進する秀吉

羽柴秀吉は織田家の後見人として事実上、織田家家臣のトップに君臣した。
そして黒田官兵衛の言葉通り、主君信長と同様に天下統一の野望を抱き始めていた。

羽柴秀吉

羽柴秀吉(豊臣秀吉)

秀吉が勝家側の武将へ攻撃開始

一度野望に取りつかれた者は、その野望を邪魔する者を排除していく。
秀吉は自分にとって邪魔となった織田信孝(信長の三男)や滝川一益といった柴田勝家に味方する武将に対して攻撃を開始する。

秀吉と対決に供える柴田勝家

そのような状況の中、勝家も秀吉との衝突は避けられないモノと判断した。
しかし、自分の領地が越後(新潟県)という雪国であった為、冬の間から自分からは動く事が出来なかった。
春になり天正11年(1583年)3月、いよいよ勝家は3万の兵を率いて出陣、柳ケ瀬に布陣した。

秀吉と「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる名将たち

秀吉も5万に及ぶ軍勢を率いて木ノ本に布陣する。
秀吉側には、後に「賤ヶ岳七本槍」といわれる武勇に優れた武将たちを率いていた。
福島正則加藤清正、加藤喜明、脇坂安治、平野長奉、糟屋武則、片桐且元ら七人の武将たちだ。

福島正則

福島正則

清正公/浄池院殿永運日乗大居士肖像

清正公/浄池院殿永運日乗大居士肖像
(原本京都府勧持院所蔵の複製画)

柴田勝家も布陣

一方、勝家側の武将には、前田利家、佐久間盛政、不破勝光、金森長近、そして一度は秀吉に敗れて降伏した織田信孝も再び参戦する事となった。
そして、両者の火蓋は切られたのである。

賤ヶ岳の戦い勃発

緒戦は勝家が優勢

戦いは当初、勝家勢が優勢だった。
佐久間盛政が大岩山砦を陥落させると岩崎山に布陣していた高山右近も秀吉率いる木ノ本の陣まで撤退する。
このとき秀吉は、50キロ以上ある木ノ本まで5時間程で戻り、佐久間盛政を急襲している。
琵琶湖の北端にあった賤ヶ岳の砦を守っていた秀吉側の桑山重晴も友軍が次々と撤退した知らせを聞き、自らも撤退を覚悟した。
しかし、このとき戦の流れを変える出来事があった。

賤ヶ嶽大合戦の図(歌川豊宣画)

賤ヶ嶽大合戦の図(歌川豊宣画)

旧友・前田利家が離脱、秀吉の逆転劇

秀吉軍の劣勢を報せを聞いた丹羽長秀が二千の兵を率いて重晴の軍に合流、しかも勝家側にいた前田利家、不破勝光、金森長近の三武将が勝手に戦線離脱してしまうという事態が起きる。
前田利家と秀吉は以前から親交があり、心情的にも秀吉とは戦いたくなかったのである。

勝家の敗走と自害

これを機に戦況は逆転し、秀吉勢が優勢となり、勝家は北ノ圧城(きたのしょうじょう)に敗走する。
秀吉がすぐに北ノ圧城を包囲すると、勝家は自ら城に火を放ち、妻のお市の方と共に自害してしまった。

信長の妹・お市の方

信長の妹・お市の方
賤ヶ岳の戦いで亡くなった

天下統一へ一歩近づいた秀吉

この合戦の終了後には織田信孝も兄の信雄の命により切腹する。
これにより信長家臣団の中で秀吉に歯向かう者はいなくなった。
信長に続く、秀吉の天下統一の野望の礎は築かれたのだ。

賤ヶ岳七本槍

脇坂安治(1554年-1626年)
木下藤吉郎(秀吉)に自ら頼み込んで家臣となった。
賤ヶ岳の戦いでは柴田勝政を討ち取ったとも云われる。
後に、伊予大州藩初代藩主となった。
片桐且元(1556年-1615年)
幼少の頃より秀吉に仕える。
小牧長久手の戦いでも、他の七本槍らと共に活躍。
大坂夏の陣では徳川方に属し、大坂落城の勅語に生涯を閉じた。
病死とされているが、自害とも云われる。
平野長泰(1559年-1628年)
若くして秀吉に仕える。
七本槍の中で、唯一大名になれなかった人物。
しかし、その後も功績は高く評価されている。
明治時代に入ると、子孫が明治新政府の高直しにより大名、田原本藩を与えられた。
福島正則(1561年-1624年)
母が秀吉の叔母(大政所の姉妹)だった縁で、幼少より秀吉に仕える。
賤ヶ岳の戦いでは、敵将の拝郷家嘉(はいごういえよし)を討ち取る。
加藤清正(1562年-1611年)
秀吉の正室、おねに実の子の様に世話になったと伝わる。
朝鮮出兵での奮戦が有名で、関ヶ原の戦いでも東軍に属して奮闘した。
糟屋武則(1562年-不詳)
賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政の配下、宿屋七左衛門を討ち取るなど活躍。
その後、九州攻めや朝鮮出兵にも参加したが、関ヶ原の戦いで西軍に付いた為、家禄は没収された。
加藤嘉明(1563年-1631年)
賤ヶ岳の戦いで名を馳せると「沈勇の士」といわれた。
後に陸奥会津藩の初代藩主となる。

↑ページTOPへ