清須会議で対立した羽柴秀吉と柴田勝家。
織田家の家臣たちはそれぞれに文派し、遂に戦に発展する。
敗北した勝家は、妻である信長の妹のお市と共に自害に追い込まれる事となる。
羽柴秀吉は織田家の後見人として事実上、織田家家臣のトップに君臣した。
そして黒田官兵衛の言葉通り、主君信長と同様に天下統一の野望を抱き始めていた。
一度野望に取りつかれた者は、その野望を邪魔する者を排除していく。
秀吉は自分にとって邪魔となった織田信孝(信長の三男)や滝川一益といった柴田勝家に味方する武将に対して攻撃を開始する。
そのような状況の中、勝家も秀吉との衝突は避けられないモノと判断した。
しかし、自分の領地が越後(新潟県)という雪国であった為、冬の間から自分からは動く事が出来なかった。
春になり天正11年(1583年)3月、いよいよ勝家は3万の兵を率いて出陣、柳ケ瀬に布陣した。
秀吉も5万に及ぶ軍勢を率いて木ノ本に布陣する。
秀吉側には、後に「賤ヶ岳七本槍」といわれる武勇に優れた武将たちを率いていた。
福島正則、加藤清正、加藤喜明、脇坂安治、平野長奉、糟屋武則、片桐且元ら七人の武将たちだ。
一方、勝家側の武将には、前田利家、佐久間盛政、不破勝光、金森長近、そして一度は秀吉に敗れて降伏した織田信孝も再び参戦する事となった。
そして、両者の火蓋は切られたのである。
戦いは当初、勝家勢が優勢だった。
佐久間盛政が大岩山砦を陥落させると岩崎山に布陣していた高山右近も秀吉率いる木ノ本の陣まで撤退する。
このとき秀吉は、50キロ以上ある木ノ本まで5時間程で戻り、佐久間盛政を急襲している。
琵琶湖の北端にあった賤ヶ岳の砦を守っていた秀吉側の桑山重晴も友軍が次々と撤退した知らせを聞き、自らも撤退を覚悟した。
しかし、このとき戦の流れを変える出来事があった。
秀吉軍の劣勢を報せを聞いた丹羽長秀が二千の兵を率いて重晴の軍に合流、しかも勝家側にいた前田利家、不破勝光、金森長近の三武将が勝手に戦線離脱してしまうという事態が起きる。
前田利家と秀吉は以前から親交があり、心情的にも秀吉とは戦いたくなかったのである。
これを機に戦況は逆転し、秀吉勢が優勢となり、勝家は北ノ圧城(きたのしょうじょう)に敗走する。
秀吉がすぐに北ノ圧城を包囲すると、勝家は自ら城に火を放ち、妻のお市の方と共に自害してしまった。
>> 北ノ圧城の戦い
この合戦の終了後には織田信孝も兄の信雄の命により切腹する。
これにより信長家臣団の中で秀吉に歯向かう者はいなくなった。
信長に続く、秀吉の天下統一の野望の礎は築かれたのだ。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)