仏教伝来と崇仏論争

仏教伝来と崇仏論争

仏教伝来と崇仏論争

大陸より日本へ伝来した仏教

6世紀に大陸より日本に伝来した仏教は、紆余曲折を経た後、日本に定着した。
以降、多くの人々に信仰されてきた仏教を通じて、政治や文化にまで、大きな影響を与えた。

百済王 聖明王より仏教が日本に伝えられる

大和王権以降の飛鳥、奈良、平安時代において、仏教は都市開発などのあらゆる面において、大きな役割を果たしている。
もともとインドで興った仏教は、1世紀ごろ中国に伝来し、朝鮮半島を経由して、538年(552年説もある)に百済の聖明王(せいめいおう)から公式に日本にもたらされた
百済王から仏像や経論などが贈られてきた時、同時に王が日本に伝えた言葉がある。
「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、とりつきにくいものですが、真の悟りを導くものです。今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広まっています。このすばらしい御仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」というものであった。
これが仏教の公の伝来(公伝)であるが、それとは別に、朝鮮半島からの渡来人たちの間では、既に仏教が崇拝されていたという。

蘇我氏と物部氏による「崇仏論争」

仏教公伝の頃の天皇は継体天皇の嫡子である第29代 欽明天皇であった。
継体天皇の崩御後、その第1子・安閑天皇、第2子・宣化天皇のそれぞれが統治する朝廷と、欽明天皇の朝廷が並立しており、対立していたという説がある。
その欽明天皇を支えていたのは、新興の豪族である蘇我氏だった。

蘇我氏が仏教信仰を進める

蘇我氏は渡来人たちとの関係が深かく、当時の世において、極めて先進的な考えを持っていた。
当時の蘇我氏の当主であった蘇我稲目(そがのいなめ)(蘇我馬子の父)は、新しく日本へ伝来した仏教を祭る事を主張した。
これに対して、古くから軍事面で重要な役割であった物部氏が対立する。
日本古来の神事と深い繋がりのあった物部尾興(もののべのおこし)らは、蘇我稲目に対して大反対との意見を主張する。

仏教が、日本古来の神々の怒りを買った?

「日本書紀」によると、欽明天皇が仏教の振興の是非を群臣に問うたとき、稲目は仏教に帰依すべきだと主張した為、天皇は試しに稲目に仏像を授けた。
稲目は私邸を寺に改め仏像を祭ったが、その後に疫病が流行ると、尾興らは「国神(日本古来の神々)の怒りに触れた」と寺を焼き払い、仏像を難波の川に捨てたという。

蘇我氏が、物部氏を滅ぼした

崇仏か、排仏か」という論争は稲目と尾興の子の代に持ち越された。
だが、蘇我氏と物部氏の争いは、宗教問題だけでは収まらなかった。
これに政治上の勢力争いも加わってしまい、苛烈さを増していく事になる。
そして、587年、稲目の子である蘇我馬子厩戸王(聖徳太子)らと共に物部守屋を攻め滅ぼした
これによって、仏教は朝廷に公認され、広く布教されていく事になったのである。

仏教が果たした、歴史的な役割

仏教が公伝してからしばらくの間、朝廷は仏教を容認しなかった。
仏教を受け入れるという事は、仏教とともに伝来してきた外国の文化をも受け入れる事を意味しているからである。
朝廷の力が及ばぬ、外の世界の存在を、一般に認識させる事を恐れたのであろう。
しかし、歴史は朝廷の望みを良しとはしなかった。

その後の日本史の中で、仏教は地方豪族らによる連合政権から、朝廷に権力が集中する中央集権的な律令国家への変革を促す役割を果たした。
この頃、東アジア情勢が緊迫する中で、朝鮮諸国も仏教を受容しており、国家構想の中央集権化は世界的な流れであったのだ。


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