持統天皇

女帝 持統天皇

持統天皇

統治者として君臨した女帝

持統天皇(じとうてんのう:645〜702)は飛鳥時代の第41代天皇。天智天皇の皇女であり、その弟の天武天皇の皇后でもあった。
天武天皇の政治を補佐し、その没後は政務を執り飛鳥浄御原令を施行した。
さらに、実子である草壁皇子の死後は自身が即位して藤原京に遷都した。
孫の文武天皇に譲位した後は、太上天皇として政治に協力し、大宝律令を完成させた。

母親の情が強く、我が子や孫が最優先

持統天皇は即位前は鵜野讚良(うののさらら)という名であり、夫である天武天皇が吉野に隠遁した際に随行した女性である。天武が天皇に即位後は政治面でも助言などの行っており、父の天智天皇と同様に強固な意志を持っていたと思われる。
天武の没後は自身が持統天皇として即位した。これまでの女性の大王は血統を保つための飾りとしての意味合いが強かったが、持統天皇は自身が政務を司る統治者として君臨する。
孫である軽皇子に文武天皇として譲位すると、自身は日本初の上皇と云われる太上天皇(たいじょうてんのう)となり、政務に協力した。
持統天皇は我が子である草壁皇子や、孫の軽皇子に皇位を伝え、政務を助ける事を最優先としており、とても母親らしい女性であったようだ。

藤原京へ遷都

飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施工した後、藤原京を造営した。
この藤原京は日本初の本格的な都城と云われ、後の平城京や平安京をも凌ぐ古代最大の都であった(場所は現在の奈良県橿原市)。

天智の血統を守り皇位を伝える

持統天皇にとって壬申の乱とは、叔父であり夫である天武と兄弟である大友皇子が争った戦いである。
この乱後、天武と鵜野讚良(持統天皇)は皇子たちを集めて、我が子である草壁皇子を次期天皇として、後継者争いをせぬよう誓いを立てた。(吉野の誓い)
これにより、父である天智天皇の血統を引き継ぎ皇位継承が出来ると考えたと云われる。
しかし、草壁皇子の異母弟である大津皇子(おおつのみこ)が間もなく頭角を現していく。
これにより、草壁皇子への譲位が危ぶまれるが、間もなく大津皇子が謀反の疑いで自害してまった為、事なきを得た。
※持統天皇の意向が強かったと思われる。
しかし、今度は草壁皇子が病気で早世してしまったのである。
幸いにも草壁皇子はすでに嫡男となる軽皇子を残しており、持統にとっては孫である軽皇子に皇位させることとなった。
この時、軽皇子はまだ7歳であったため、持統が即位する事となった。

遂には暗殺まで・・?

その後も、軽皇子が成人するまでに再びライバルとなる高市皇子(たけちのみこ)が現れる。
高市皇子は天武天皇の第一皇子として持ち上げる声も多かったが、彼は43歳で亡くなってしまった。
高市皇子の死は持統による暗殺説があるが、これにより、持統は無事に軽皇子に譲位し、文武天皇として即位させる事が出来たのであった。



↑ページTOPへ