鎌倉幕府と朝廷

鎌倉幕府と朝廷の対立

日本の統治を巡って鎌倉幕府と朝廷が武力衝突となった承久の乱(1221年)。
この戦に負けて以降、朝廷は日本の統治権を武士に奪われてしまった。
このページでは、日本の統治権が朝廷から鎌倉幕府への移り変わりを記述する。

日本初の本格的な武家政権

平氏を滅ぼした源頼朝は、鎌倉に幕府を開く(源平争乱)。
日本初の本格的な武家政権の登場である。
※厳密にはこの時期、「幕府」という言葉はなく「鎌倉殿」などと呼ばれていた。
以後、幕府と朝廷は日本の支配を巡って激しい駆け引きを展開し、最終的に「承久の乱」という武力衝突を迎える事になる。

源頼朝

源頼朝

文治の勅許

文治元年(1185年)、頼朝は後白河法皇から諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可された。
これを「文治の勅許」という。
守護は国ごとの、今で言う検察長官である。
地頭は荘園や公領ごとの警察官、裁判官、及び税金徴収役に相当する。
頼朝はその頂点に立つ総追捕使(そうついぶし)・総地頭として君臨し、一気に全国の軍事・警察・行政権を掌握した。
近年では、この1185年を鎌倉時代の始まりであると、一般視している。

幕府の機構は、基は義経討伐にあった?

当初、この制度は頼朝の弟、義経の追討を目的としたものだったが、義経の死後に恒久的となった。
後白河には過去義経に頼朝追討を命じた負い目が在った為、頼朝の要求を拒む事が出来なかったのだろう。

幕府は朝廷の下部組織

頼朝は画期的な軍事政権を築いた。
ただし、幕府とはあくまで朝廷の指示によって出来た政権であり、朝廷から独立した機関でない
さらに、有力公家や寺社は荘園の支配権を依然保っていた事から、幕府の支配はまだまだ不完全なものだった。
この公(朝廷)と武(幕府)による二元的な支配体制が鎌倉前期の特徴である。

北条氏の台頭

後白河の崩御後、歴史の中心人物として存在感を増していくのが、第82代天皇の後鳥羽天皇である。
後鳥羽は源平争乱の只中に生まれ、その影響で「神器なき即位」を余儀なくされた天皇だ。

朝幕姻戚を目論む頼朝の失策

頼朝は妻・北条政子との間に生まれた大姫を後鳥羽に入内させようと画策する。
最も幕府の立場を理解している頼朝は、天皇と鎌倉殿(東国武士団の首長である頼朝)が姻戚になる事で、幕府を盤石な体制にしようと考えたのだ。
宮廷の実力者である丹後局(たんぼのつぼね)(後白河の寵妃)と土御門通親(つちみかどつちちか)に接近し、それまで朝幕(朝廷と幕府)の橋渡しとして盟友関係にあった九条兼実を見捨てて工作に励んだ。
だが、大姫が病死した為、話は立ち消えとなる。
兼実の失脚は朝廷内の反幕府勢力の台頭を呼び、頼朝にとっては重大な失策となってしまった。

頼朝の死で実権が北条氏へ

その後、頼朝が突然の死を迎え、この頼家が2代将軍になると、幕府の実権は将軍から政子の実家である北条氏へと徐々に移行していく。
北条氏は将軍外戚の地位を利用して巧みに政敵を滅ぼし、頼家まで殺害して情勢を高めていったのだ。
政子の父・時政は、3代将軍として実朝(頼家の弟)を擁立して政所(まんどころ:庶政・財政・訴訟を司る機関)別当となり、実朝の補佐を名目に幕府の実権を握った。

北条政子

北条政子

将軍補佐「執権」が実権を握る

この地位は執権と呼ばれ、代々北条氏が世襲する。
その後、時政は子の政子と義時(よしとき)に追放され、尼御台(あまみだい)と呼ばれた政子と2代執権義時が幕政を主導した。

実朝の死で公武関係に暗雲

後鳥羽の院政

一方、朝廷では後鳥羽が本格的に院政を開始した。
多芸多才で弓をとっても一流だった後鳥羽の勢いは凄まじく、丹後局・通親ら旧勢力を失墜させて専制色を強めていく。
なお実朝の名は後鳥羽が与えたもの。

後鳥羽上皇

後鳥羽上皇

朝廷に取り込まれる実朝

後鳥羽は実朝を取り込んで幕府への影響力を高めようとし、実朝のこれに応え、自らの意思で京から正室を迎えようとした。
後鳥羽は自ら選定して縁戚の娘(坊門信清の娘)を盛大な調度品と共に鎌倉へ送った。
この婚姻で公家社会の気風は鎌倉へ浸透し、実朝も和歌と蹴鞠をたしなむ公家然とした将軍となる。

実朝暗殺?で公武対立が鮮明に

実朝は武士として初めて右大臣に昇進し、公武融和の象徴となったが、承久元年(1219年)、突如として鶴岡八幡宮で暗殺されてしまった。
事件の背景は今もって不明だが、義時の暗躍を伺わせる材料は多い。
政子らは後継者として皇族将軍の東下を要請したが、後鳥羽はこれを拒否した。
幕府存続に手を貸す気が無かったのか、宮将軍の安全問題を憂慮したのか、真意は不明だ。
緩衝役だった実朝の死が公武の対立を表面化させていったのは間違いなかった。

朝廷の人事を受け入れない幕府

1219年、後鳥羽は寵愛していた白拍子(しらびょうし)の所領の地頭が不法行為をしたとして、罷免要求を幕府に出している。
これに対し義時は弟の時房(ときふさ)に一千騎を与えて上洛させ、断固反対の意を伝えた。
鎌倉御家人を必ず保護するという姿勢を示したのだ。

各地で朝廷への不満が表面化

この年は内裏が大火災に見舞われた年でもあった。
後鳥羽は全国一律に夫役(ぶやく:人民に強制的に課する労役)を課して再建しようとしたが、各地の地頭はこれに激しく抵抗した。
思うようにならない幕府に対する後鳥羽の苛立ちは、やがて倒幕への決意へと変わっていく。

揺らぐ朝廷の権威

戦の準備を始める後鳥羽

後鳥羽は子の順徳天皇(じゅんとく)と多くの朝臣、寺社勢力を糾合して幕府討伐を決行する事となった。
局外者となったのは、幕府勢力と近い摂政九条道家(兼実の孫)、太政大臣西園寺公経(さいおんじきんつね)、そして後鳥羽の第一皇子だった土御門上皇である。
土御門はむしろ後鳥羽を諫め、父と弟の順徳と距離を取っていた。
承久3年(1221年)4月、後鳥羽は仲恭天皇(ちゅうきょう)を即居させ、順徳を倒幕に専念させる。
更に延暦寺僧兵を味方に付ける為に、天台座主を尊快入道親王とし、さらに多くの寺で幕府調伏の祈祷を行った。

承久の乱の勃発

準備を整えた後鳥羽は、5月14日に流鏑馬(やぶさめ)と称して畿内近国の兵を招集。
手始めに京都守護の伊賀光季(いがみつすえ:北条氏の外戚)を討ち、倒幕の狼煙を上げる。
承久の乱の勃発である。

武士勢は朝廷の招集に応じなかった

次いで義時追討の宣旨・院宣を諸国に下した。
後鳥羽は御家人の力で義時と北条氏を倒そうと考えていたのだ。
だが、後鳥羽の思惑に反して幕府の結束は堅く、御家人たちは呼び掛けに応じなかったのだ。

御恩と奉公により、武士は土地を守る

将軍(当時は実質的に政子が尼将軍として君臨)と御家人は、給付地(封土)に基づく「御恩と奉公」という主従関係で結ばれていた。
御家人にとって土地は命であり、例え相手が朝廷であっても、それを保護してくれる幕府は命がけで守らねばならなかったのだ。

幕府の挙兵で京が制圧される

幕府は遠江以東15か国からなる大軍を集め、東海道・東山道・北陸道の三道から京へ攻め上がった。
頼みの延暦寺も力にならず、後鳥羽方は連戦連敗を重ねる。
6月15日に京はあっさり制圧された。
後鳥羽は敗北を認め、宣旨の撤回と、幕府の公家政治への干渉権を承認する。

乱後、幕府の統治は西国にまで及ぶ

幕府の戦後処理は厳しく、仲恭天皇は廃され、後鳥羽・順徳・土御門の各上皇は、隠岐・佐渡・土佐へ配流された。
西国を中心とした後鳥羽の所領3000ヵ所が没収され、有力御家人に与えられた。
以後、幕府の統治は西国にまで及ぶようになった。

朝廷権威の失墜

乱が終わっても、幕府は形式的には朝廷に保証された政権である事に変わりはなかった。
しかし、実質的には幕府が国政の最高支配者の地位を勝ち取ったに等しい。
朝廷の権威は大きく失墜した。


↑ページTOPへ