北条義時

北条義時

北条義時(ほうじょう よしとき)は鎌倉幕府の第2代執権
北条時政の次男、北条政子の弟、得宗家2代目当主。

北条義時が生きた時代は1163年(長寛元年)〜1224年(元仁元年)。
数えで62歳まで生きており、当時(平安末〜鎌倉初期)としては長寿であったといえる。

北条義時 承久記絵巻より

北条義時 承久記絵巻より

姉が源頼朝と結婚、義弟となる

北条時政の次男、北条政子の弟

伊豆国田方郡北条(現:静岡県伊豆の国市)を治めていた豪族・北条時政の次男として誕生、四番目の子供であり、小四郎と呼ばれていた。(江間小四郎)
母は「伊東入道の娘」である。
幼少期の記録は不詳であり、小四郎(義時)が15〜6歳のころ、姉・政子が伊豆の流人とされていた源頼朝と結婚した。

頼朝とともに平家と戦う

元服して義時と改名、1180年(治承4年)に頼朝が反平家の兵を挙げるとそれに従軍
18歳で初陣を飾って以来、父や頼朝と幾多の戦を経験していく。
※しかし、最初の石橋山の戦いでは敗北、兄の宗時が討死。

頼朝の側近「家子」となる

養和元年(1181年)4月、義時は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた。
この頼朝の個人的な側近・親衛隊は「家子」と呼ばれて門葉(源氏血縁者)と一般御家人の中間に位置づけられ、義時はその中でも「家子の専一」とされた。

頼朝に対しては篤い忠義を持っていた?

父・時政が頼朝に恥をかかされた恨みから、謀叛をほのめかして頼朝を脅迫した時、何も事情を知らなかった義時は(父に従って鎌倉を出るような事をせず)そのまま頼朝のそばに居続けたため、その「忠義」を称賛されている。

鎌倉幕府の二代目執権に

頼朝の死後、躍進

義時がその本領を発揮したのは頼朝の死後である。
頼朝の嫡男・源頼家は将軍になった後は独裁色を強めていく。
そこで頼家の暴走を制御するため、幕府の政治を将軍親政から有力御家人13人による合議制に改められる。
その中の一人として時政と義時は存在感を示していた。

多くの政敵を滅ぼしていく

有力御家人13人の一人となった義時はその後、梶原景時や比企能員、畠山重忠や和田義盛といった政敵たちを次々と滅ぼして幕府の実権を掌握していく。

将軍まで手に掛けたと云われる

時政と義時の「手」は将軍にまで及んだともいわれている。
一説には第2代将軍・頼家を鎌倉から追放した上で暗殺
またその跡を継いだ3代将軍・源実朝も自分の意にそぐわなかったため、その甥・公暁(くぎょう 頼家の嫡男)に暗殺させたという。

鶴岡の暮雪 公暁に暗殺される実朝

『月岡芳年 美談武者八景 鶴岡の暮雪』
鶴岡八幡宮にて、公暁に暗殺される実朝を描いている

父・時政を追放

さらに義時は父・時政に引退(出家)を迫り、幕府から追放。
以後は、先に出家して「尼将軍」となっていた姉・政子と共に鎌倉幕府を切り盛りする。

幕府の支配者となる

3代源氏将軍が滅亡した後、義時は執権となり、幕府の実質的な支配者となる。

『承久記絵巻』巻2(部分)

『承久記絵巻』巻2(部分)
北条義時(左上)のもとに集まる武士たち

鎌倉幕府と朝廷の関係が悪化

源氏の血筋が途絶え、将軍候補を朝廷に求める

実朝の死後、実朝には子がいなかった為、次の将軍候補として朝廷より後鳥羽上皇の子を送ってもらう計画が立てられるも、朝廷に断られ失敗。
さらに後鳥羽は幕府に対して別の要求を出して来るも、これを幕府は拒否。
仕方なく幕府は皇族将軍をあきらめ、頼朝の遠い縁戚である摂関家の藤原頼経を4代将軍として迎え入れる。

政子が後見として実権を握る

このため、政子が尼将軍として頼経の後見と空白となっていた鎌倉殿の地位を代行し、義時がこれを補佐して実務面を補うことで実権を握る執権政治が確立した。
しかし、実朝死後の半年にわたる将軍後継者問題で、鎌倉幕府と朝廷の関係は悪化してしまった。

承久の乱で朝廷に勝利

幕府と朝廷の対立が激化すると、1221年に後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となるも、幕府軍は京都に攻め上り朝廷を制圧(承久の乱)。
仲恭天皇の皇位を廃し、3人の上皇を配流し、朝廷から権力を奪う事に成功した。

『承久記絵巻』巻4(部分)

『承久記絵巻』巻4(部分)
宇治川合戦の場面、川の左側に陣取るのが後鳥羽上皇側、右側が鎌倉幕府側

承久の乱の意義

後鳥羽上皇ら朝廷との戦いである「承久の乱」に勝利することで、鎌倉幕府は朝廷の影響下から脱却した「武士の都」として独立を果たした。
頼朝にしても、あくまで従来の「朝廷の権威によって」武士たちを支配・統率する方針を変えることは出来なかった。
しかし、義時たちは朝廷からの独立に成功したのであった。
義時こそは「鎌倉幕府における、頼朝に次いで政子に匹敵するレベルの功労者」と言える。

『承久記絵巻』巻6(部分)

『承久記絵巻』巻6(部分)
承久の乱で敗れ、牛車で隠岐へ向かう後鳥羽上皇の一行る=個人蔵、京都文化博物館提供

義時の最期

義時の辞職と急逝

義時は乱の翌年、1222年に陸奥守と右京権大夫を辞職し無官となる。
そして、2年後の1224年6月13日、義時は62歳で死去した。
※死因は衝心脚気とされるが、やはり諸説ある

義時の墓

義時の墓は臨済宗建長寺派の北條寺境内にあり、息子であり3代執権の北条泰時が建てたものと伝えられている。


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