北条政子

幕府を支えた尼将軍 北条政子

頼朝に尽くす、気性の激しい女性

北条政子(1157〜1225年)は北条時政の娘であり、源頼朝の正室である。
平治の乱後、平清盛より伊豆に流刑とされたていた頼朝と出会い、夫婦となった。
鎌倉幕府の成立から発展まで頼朝に尽くした政子ではあるが、その結婚は父の時政に反対され、一時は駆け落ちまで考えるほどの恋路であったと云われる。
また、頼朝が自分以外の女性と会うなどすれば、悋気を起こしその相手の屋敷を焼き打ちしてしまうほどの気性の激しさも持ち合わせていた。
鎌倉幕府の成立後、1199年に頼朝が亡くなってからは、弟である義時と共に将軍を後見して幕政を担う事となる。
>> 実質、四代目鎌倉殿だった政子

『武者鑑』より北条政子

『武者鑑』より北条政子
国立国会図書館蔵

頼朝亡きあとの鎌倉幕府を支える

政子は頼朝の死後、頼朝に対する思いを幕政に向ける事となる。
父や弟と共に幕府を取り仕切る事となるが、なんと我が子である2代将軍・源頼家を廃したり、有力御家人の誅殺など、目的達成の為なら手段を択ばぬ非情さも見せるようになった。
そして、3代将軍である源実朝(さねとも)が暗殺されてしまった後は、摂関家より幼少の将軍を迎え、後見人となる事で北条氏の権力基盤維持に貢献した。

後鳥羽上皇との戦いでの名演説

1221年、京都・朝廷の後鳥羽上皇が鎌倉幕府を打倒する事を決意する。
これにより朝廷は、幕府執権の北条義時追討の院宣を諸国の武士に対し発布したのだ。政子と鎌倉幕府はこれにより天皇と敵対する「朝敵」となってしまう。この当時、朝廷に対する武士たちの畏怖心や権威が非常に強く、朝廷に恐れをなして後鳥羽上皇に付く武士が沢山出ても仕方のない状況だったのが。
しかし、政子は臆せず頼朝の妻として、亡き頼朝に代わり武士たちに対して演説を行った。
幕府が出来る前までは東国の武士たちの生活はとても貧しかったのだ。頼朝が鎌倉に幕府を創設する事で「新恩給与(しんおんきゅうよ)」や「官位推挙」(かんいすいきょ)」などの新たな仕来りが出来ることで武士たちの生活は豊かになった。その頼朝への恩を思い起こさせることを説き、武士団の結束を固めることに成功したのだ。そして、鎌倉幕府は朝廷に勝利した。

承久の乱後、後鳥羽上皇は配流

政子の演説後、幕府軍は大軍となり京都に登り、上皇方の軍を撃破し危機を回避した。
この乱後、後鳥羽上皇らは流刑となり、上皇に加担したもの達は所領を没収される事となる。
そして、幕府は六波羅探題を設置する事で、朝廷の監視を行う事となる。

実質、四代目鎌倉殿だった政子

幕府における政子の正式な地位とは?

「尼将軍」といっても征夷大将軍ではない

政子や後鳥羽の女房(乳母)の卿二位藤原兼子が政治を主導するさまを当時の人は「女人入眼の日本国」と評した。
政子はしばしば「尼将軍」とも呼ばれている。
だが、もちろん政子自身が征夷大将軍に任じられたわけではない。
政子の幕府における地位とはどのようなものだったのだろうか。

「鎌倉殿」としての権力を有していた

政子が「御文」を発給して土地の権利を認めていた

1219年(承久元年)、実朝が暗殺された後、迎え入れられた摂関家の九条頼経(三寅)はまだ幼児であった。
頼経は義時の邸宅内に御所を設け、政子もそこに同居し後見した。
以後、政子は実質的な幕府の指導者、すなわち鎌倉殿の地位に就く。
歴代の鎌倉殿が下文を発給して御家人たちの所領を安堵・給与したのと同様、女性の政子は仮名書の「御文」を発して土地の権利を認めた。

朝廷から「従二位」を叙する

二位殿、二位家と呼ばれた

政子は朝廷からも従二位にいたる位階を得ており(「政子」という名は1218(建保6年)に叙位されたときに付けられたもので、それ以前の名は不明)、「二位殿」「二位家」が政子の通称となった。
かつては、授かった地位や、統治する国名で呼ばれる事が多かった。

『御成敗式目』でも「鎌倉殿」と同列

三代実朝の次に、正式に「平政子」が入っている

鎌倉後期の『吾妻鏡』や『鎌倉年代記』などの歴史書が歴代の「将軍」として、実朝と頼経の間に「平政子」「二位家」を取り上げている。

鎌倉幕府が正式に政子を「四代目鎌倉殿」と規定していた

また、先述の通り、政子は御家人の所領の保証を行っていたが、政子の死後制定された『御成敗式目』では、「代々将軍ならびに二位殿の御時」に給与された土地は元の持ち主であっても権利を主張することはできないと規定されている。
鎌倉後期の幕府法でも、この「三代将軍ならびに二位家」という括りは度々用いられた。
このように、幕府の歴史認識および法制において政子は歴代将軍と並び、源氏将軍と一括して扱われていたのである。

当時は女性の地位が高かった

この時代においては、男子と並んで所領の相続が認められるなど、女性の地位が比較的高かったことは知られている。
政子もまた、頼朝の「後家」として将軍家を支え、源氏将軍が絶えた後は将軍家を代表する存在とみなされていた。

北条氏が、政子を「源氏将軍の後継者」と担ぎ上げた

そしてその治世は源氏将軍から北条氏への権力移行期として、死後、北条氏によって特に意義を強調された。
北条氏にとって「源氏から幕政を乗っ取った」といわれぬよう、政子と源氏将軍との繋がりを強調したい思惑が在ったのかも知れない。

北条政子

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