順徳天皇

順徳天皇

順徳天皇

優れた才覚を持った天皇

順徳天皇(1197〜1242年)は後鳥羽天皇の第三皇子である。
土御門天皇の異母弟にあたる。
後鳥羽上皇の意思によって、土御門天皇より皇位を譲られ、14歳という若さで即位した。
先代の土御門は比較的、のんびりした性格であるといわれるが、順徳は才気煥発な才覚を持っていた。
学問や歌道に優れており、その事が後鳥羽に評価されたのである。

学者肌の天皇、禁秘抄を著す

「増鏡」などによれば、11年の在位期間、各所への行幸も多く、人々に鮮やかな印象を残す華々しい活動が多かったようだ。
後鳥羽上皇の皇権回復朝儀回復という目標を達成するために協力したのだ。
学者肌の天皇でもあり、故実書「禁秘抄(きんぴしょう)」の著作が知られる。
これは、天皇自身に関わる故実作法の希少な書物であり、皇室の優位性を示す目的もあったと思われる。

幕府との戦いに敗北

承久の乱」に深く関わっており、父と共に合戦の事などを指図した。
しかし、敗れて佐渡に配流された。
21年後、四条天皇の急逝で、皇子・忠成王と土御門の皇子・邦人王(後嵯峨天皇)が継承候補となり、還京する機会が訪れる。
しかし、幕府の意向で、乱に関与しなかった土御門の皇子が践祚となった。
絶望した順徳は自ら食を断って、死去したという。

歌輪書 八雲御抄

順徳天皇は歌人としても一流で、歌輪書「八雲御抄(やくもみしょう)」を著した。
「小倉百人一首」には、御製の「百敷や 古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり」がある。
「百敷(ももしき)」は内裏や宮中の事。皇室の権威衰退を古き軒端(屋根の端)に例え、昔の栄華を偲んだ歌である。



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