後醍醐天皇(1288〜1339年)は1318年に大覚寺統の天皇として即位した、第96代の天皇。院政を廃して親政を開始する事で、天皇権限強化に努めた。鎌倉幕府倒幕計画に一度は失敗するが、反幕府勢力を再結集する事で倒幕に成功する。その後、建武の新政を開始するが、全国各地の武士たちの不満を募らせる結果となってしまい失敗し、南北朝の内乱が始まってしまう。
楠木正成(?〜1336年)は鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて活躍した武将。
後醍醐天皇の呼びかけに応じて挙兵し、鎌倉幕府と戦い勝利した。
鎌倉幕府の滅亡後に建武の新政より離脱した足利尊氏の軍と湊川にて戦ったが、敗北し自害した。
北条時宗(1251〜1284年)は鎌倉幕府の8代目執権。名君として名高い5代目執権の北条時頼の次男であり、北条氏の嫡流として、若くして執権となった。元・モンゴル帝国による二度もの日本侵略である蒙古襲来(元寇)を九州北部にて防衛した鎌倉時代最大の英雄である。
北条泰時(1183〜1242年)は初代六波羅探題で鎌倉3代執権、源頼朝の妻である北条政子の甥である。
承久の乱(1221年)において総大将として活躍し、見事に幕府軍を勝利へと導いた。
1224年に父の北条義時の死後、鎌倉幕府の執権として就任する。
第84代 順徳天皇(1197〜1242年)は鎌倉時代に初期の天皇。後鳥羽上皇の皇子にあたり、父と共に承久の乱において鎌倉幕府を戦うを敗北し、佐渡に配流されてしまった。
しかし優れた書物を後世に残している。
後鳥羽上皇(1180〜1239年)は第82第天皇。
平安時代の末期から鎌倉時代初期の人物である。承久の乱を引き起こして鎌倉幕府と対立し、配流となった。
三種の神器を用いずに天皇に即位した事でも知られる。
北条政子(1157〜1225年)は北条時政の娘で、源頼朝の正室。
平治の乱後、流刑とされたていた頼朝と夫婦となった。
鎌倉幕府の成立から発展まで頼朝に尽くし、頼朝の死後は尼将軍として自身が幕府を支えた。
源頼朝は初めて東国の地、鎌倉に幕府という本格的に武士政権を開いた将軍の祖である。
幕府が成立した後は、1199年に落馬で亡くなってしまった。
頼朝の没後は、妻の北条政子らが政治を引き継いだ。