朝廷の律令による「公地公民制」は効率的な仕組みではあったが、現実には様々な問題があり、崩壊の兆しを見せ始めていた。
>> 荘園が出来るまでの年表
天皇を中心とする中央集権国家の形成を目指した大化の改新まで、国内の土地や人民は、天皇、皇族、豪族がそれぞれ私的に所有、支配していた。
646年に発せられた改新の詔(みことのり)は、土地や人民は全て国家のものとする公地公民制への転換を示すものだったとされる。
しかし、実際には、土地や人民の私有禁止は発令されなかったか、あるいは実効性がなかった。
公地公民制の実現を象徴するのは、702年施行の大宝律令だ。
同時期には、6年に1度戸籍が作成され、農民に口分田を与える班田収授も6年に1度、実施されるようになった(6年1般)。
6歳以上の良民(一般人の事)の男子には2段(約24アール)、女子にはその2/3の口分田が支給され、1段につき2束2把の田租が徴収された。
しかし、奈良時代に入ると税負担や平城京建設などの労役から逃れる為、豪族の下に身を寄せたり、貴族の支配下に入ったりする農民が増えていく。
そこに農民人口の増加も加わり、口分田の荒廃や不足が重大な問題となった。
723年、朝廷は期限付きで、開墾地の私有を認める三世一身法(さんぜいっしんほう)を制定した。
これによって、以前よりは開墾は進んだ。
しかし、いずれは国に土地を返さなければならない為、農民の墾田意欲を増大させるには至らなかった。
そこで、743年、土地の無期限私有を許可する墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が制定される。
開墾の限度は位階(いかい)によって定められてはいた。
しかし、朝廷自らが公地公民制を放棄した事になり、以降、貴族や寺社の私有地は増加していった。
これにより、大規模な私有地である「荘園」が発生する。
奈良時代末期には、寺社や貴族が一般農民を使い開墾を勧めた為、農民たちが所有していた田畑は荒廃していく。
桓武天皇は6年1般を12年1班に改め、班田収授の維持を図ったが、その後も荘園の拡大と、農民層の分化は避けられず、902年の班田を最後に、公地公民制は終焉を迎えた。
西暦 | 出来事 |
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646年 | 大化の改新と改新の詔の発布 公地公民制の始まり(実効性はなかった) |
689年 | 飛鳥浄御原令 戸籍制度、班田収授法などが制度化された |
702年 | 大宝律令による律令制度の始まり |
奈良時代初期 | 人口増により口分田が不足し、重税により農民たちが逃げ出す |
722年 | 百万町歩の開墾計画 |
723年 | 三世一身法 新しい灌漑施設をともなう開墾地は3代まで、旧来の灌漑施設を利用した開墾地は本人1代までの私有を認める |
743年 | 墾田永年私財法 自分で開墾した土地は、永久に私有を認める |