南北朝の動乱

南北朝の動乱

後醍醐天皇の親政は失敗、南北朝時代へ

鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は、自身が政治を執る「建武の新政」を開始する。
しかし、後醍醐天皇が目指す政治は、武士政権確立後の習わしを無視したもので、天皇による専制であった。
これを受けた武士の不満が噴出してしまい、わずか3年で崩壊してしまう。
以後、朝廷は北朝と南朝の分裂時代に突入していく。
武士の声望を集める足利尊氏の北朝と、後醍醐天皇の南朝の戦いが始まった。

建武の新政は何故、失敗したのか?

京都に入った後醍醐天皇は、平安期の「延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)」を理想とし、天皇親政を目指して「建武の新政」を開始した。しかし、3年ほどで失敗する。
その主な理由として、「綸旨(りんじ)」という天皇の意思を示す文書を、絶対優先とした政務の混乱や、持ち主が20年以上支配している土地の権利は変更できないという武士社会の「年紀法(ねんきほう)」を無視した事による武士層の離反などが挙げられる。

南北朝時代へ

1335年、鎌倉で14第執権 北条高時の子・北条時行(ときゆき)らによる反乱「中先代の乱(なかせんだいのらん)」が勃発する。
この乱を鎮圧した足利尊氏は、その直後に建武政権からの離反を鮮明にした。
翌年、京都制圧に成功した尊氏は持明院統の光明天皇(こうみょう)を擁立し、室町幕府を樹立した(北朝)。
一方の後醍醐天皇は、吉野へ逃れ(南朝)、長期にわたる内乱の時代、南北朝時代が始まった。

観応の擾乱

室町幕府には、畿内近国の新興武士層と鎌倉幕府以来の伝統的武士層との間で、深刻な対立が存在していた。
新興武士層は新たな枠踏みの政治を求め、尊氏の側近の「高師直(こうのもろなお)」を支持していた。
伝統武士層は、鎌倉幕府のような秩序の復活を目指して、尊氏の弟の「足利直義(あしかがただよし)」を支持。
両者の対立は、「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」と呼ばれる全国的な争乱を招いてしまう。

三つ巴の勢力争いとなり、泥沼化する

この過程で、尊氏ら急進派、直義ら漸進派ともに、情勢の変化に応じて南朝を支える場面が生まれるなど、南北朝の動乱は、尊氏派、直義派、南朝勢力の3者が三つ巴の争いを展開する事で、長期化していった。
南朝は吉野を攻撃された為、脱出を余儀なくされてしまい、九州へと拠点を移す事になるのである。

南北朝の関係図

北朝

持明院統 光明天皇

  • 足利尊氏(1305〜1358年)
    後醍醐天皇と対立。光明天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開く。
  • 足利直義(1306〜1352年)
    兄・尊氏の右腕として政務に携わるが、高師直と争い、一時南朝に。
  • 高師直(????〜1351年)
    尊氏の側近として北畠顕家、楠木正成の子・正行(まさつら)を討つ。

南朝

大覚寺統の天皇 後醍醐天皇

  • 新田義貞(1301〜1338年)
    尊氏との戦いに敗れ、後醍醐天皇の皇子恒良親王らを奉じて越前によったが戦死。
  • 楠木正成(1294〜1336年)
    河内の豪族。建武政権樹立に貢献するが、九州から進軍した足利直義に敗れ、湊川で戦死。
  • 北畠顕家(1318〜1338年)
    反旗を翻した尊氏を急襲に追い落とすが、後に高師直に敗れて石津で戦死。

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