湊川の戦いは、南北朝時代の建武3年(1336年)5月25日に、摂津国湊川(兵庫県神戸市)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。
九州から東上して来た足利軍を楠木・新田軍が湊川(神戸市)で迎え撃つ。
両軍の兵力は『太平記』によれば、足利軍が50万以上、楠木・新田軍5万以上もの大軍だったといわれ、実数は不明だが、足利軍が優位であった。
さらに足利軍は水軍を自在に操る事によって、楠木・新田軍を翻弄し、義貞は敗走、正成は完全に包囲され、弟の正季らと共に自害した。
この戦いの後、征夷大将軍となった足利尊氏によって室町幕府が開かれる。
1336年1月、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏は、新田義貞や楠木正成、北畠顕家らに敗れて京を追われ、九州に落ち延びた。
このとき正成は、「有利な立場にいるうちに」と後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言する。
しかし、天皇はこれを拒否し、義貞を総大将とする尊氏討伐隊を組織し、正成に謹慎を命じる。
一方、義貞は直ぐに九州には向かわずに、播磨(兵庫県)の白旗城で尊氏側の赤松則村との戦いに時間を費やしてしまう。
この間に尊氏は九州で軍勢を増やし、四国の細川氏、土岐氏、河野氏らの水軍と合流すると京を目指して進軍を開始した。
尊氏の進軍に慌てた義貞は白旗城からの撤退を開始するが、赤松氏が追撃を掛ける。
義貞の軍勢からは大量の投降者や寝返りを打つ者などが続出し、極端に数が減ってしまった。
後醍醐天皇方に味方する武士は決して多くなかったのだ。
その後、義貞は尊氏軍を迎え討つため和田岬に陣を構える。
一方、謹慎を解かれた正成は湊川に布陣した。
尊氏軍が一部が生田に上陸すると、退路を断たれる事を恐れた義貞軍は東走。
正成軍は孤立してしまう。
和田岬から上陸して来た尊氏の大軍を前にして正成は成す術もなく、弟・正季ら一族とともに自刃し、正成軍は壊滅した。
西宮から引き返した義貞軍は尊氏軍と激しく交戦するが、大軍を前にあえなく敗退。
その後、義貞は後醍醐天皇を奉じて比叡山に逃れた。
尊氏は光明天皇を擁立すると、建武式目を制定し、室町幕府を開いた。
>> 守護大名と室町幕府