楠木正成

倒幕に貢献した武士 楠木正成

楠木正成

悪党と呼ばれるも、天皇の下で戦った武士

楠木正成(?〜1336年)は鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて活躍した、河内国で「悪党」と呼ばれた武将である。
後醍醐天皇の呼びかけに応じて挙兵し、赤坂城や千早城にて鎌倉幕府と戦い、大いに幕府軍を苦しめた。
鎌倉幕府の滅亡後に建武の新政より離脱した足利尊氏の軍と湊川にて戦ったが、この戦いで敗北してしまい、自害した。

奇策を使い、鎌倉幕府軍を翻弄する

正成の前半生は不明な点がとても多く、生年月日も不明である。
正成が歴史の表舞台に登場したのは、僧の文観(もんかん)の取り成しにより後醍醐天皇とつながりを持ち、鎌倉幕府の倒幕運動に関わりだした頃である。
1331年の元弘の変(げんこうのへん)において、後醍醐天皇に呼応して赤坂城で挙兵し幕府軍と戦う事になったが、この戦いで正成は敗北し、赤坂城は落城してしまった。
この戦いの後、しばらく正成は姿をくらませる事となるが、その翌年に千早城(ちはやじょう)で再び挙兵し、赤坂城の奪還に成功した。

鎌倉幕府を倒す事に成功

正成を警戒した鎌倉幕府は、20万もの大軍で正成が籠る千早城を包囲するのであった。
正成は、これに対して、機略によって徹底抗戦の道を選んだ。
城壁に迫った敵兵に対して油を注ぎ火を放ったり、人形に甲冑を着せて敵をかく乱させて隙をついたり、兵を農民に見せかけ油断を付くなどの戦術を駆使する事で千早城を死守し、幕府軍を足止めしたのである。
正成が時間を稼ぐ間には、源氏の足利尊氏や新田義貞らも挙兵し、幕府軍に反旗を翻した。
この戦いの後、鎌倉幕府は滅亡してしまったのである。
戦いに勝利した正成は、無事に都に入り、戦功として多くの所領を得ることで出来た。

足利尊氏と戦う事に

後醍醐天皇が行った建武の新政は「親政」といい、摂政・関白を置かず天皇が自ら政治を行うものであった。
この親政とは、それまでの鎌倉幕府の習慣を全く無視したものであったため、多くの武士たちの反感を買ってしまう。
そして、後醍醐天皇に対して、正成と共に幕府軍と戦った足利尊氏が反旗を翻した。
この戦においても、正成は最前線で戦うのであった。
1336年の戦いでは、鎌倉より進軍してきた尊氏を破り、九州まで敗走させる事に成功するが、尊氏はすぐさま軍を整え再起を計った。
九州より東上して来た尊氏の軍を、正成は湊川で迎え撃つのであった。

劣勢を覚悟し、最後まで戦う

鎌倉幕府の創立以来、武士を中心とした政権が長く続いた為、武士の立場を守ろうとする尊氏に付く武将は九州や四国にも沢山いた。
東上して来た尊氏の軍は、20万にも及んだと云われ、戦いの優劣は火を見るよりも明らかであった。
自分の劣勢を悟った正成は、後醍醐天皇に対し、一度京都を足利軍に明け渡してから、軍勢の増強を計ってから再起を図るべきだと進言するが、これを拒否されてしまう。
こうして、正成は一族郎党の700騎程の軍勢を率いて、新田義貞と共に足利軍と対峙する事となってしまった。
数万もの足利軍にはとても太刀打ちできずに、新田軍はすぐに敗走してしまう。
正成は善戦したが、やはり長くは続かなかった
自身の死を覚悟した正成は、弟である楠木正季(くすのきまさすえ)と共に、お互いに刺し違えて自害した。



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