3代将軍・足利義満の代に全盛期を迎えた室町幕府であったが、義満の死後、急速に衰退していく事となる。
クジ引きの結果、6代将軍に就任した足利義教だったが、容赦なく将軍権力の教化を断行した。
多くの守護から不満を買った義教は、嘉吉元年(1441)に、播磨守護の赤松満祐によって暗殺されてしまう。
将軍暗殺という室町幕府始まって以来の大事件以降、幕府の権威が回復する事はなかった。
>> 室町幕府の経済政策の失敗
3代将軍・足利義満は応永15年(1408)、病に倒れ死去した。
義満は、溺愛していた次男・義嗣を天皇にして、自らは「治天の君」(天皇家の家長)の立場に付く事を目論んでいたとも云われ、その為に朝廷側の恨みを買って暗殺されたとの説もある。
真偽は分からないが、南北朝を合一し、足利政権を安定させた義満は死去し、嫡男・義持が将軍職を継いだ。
4代将軍・義持は父が築き上げた政権を比較的安定した状態に保つ事に成功する。
しかし応永23年(1416)には、鎌倉公方に不満を持っていた前関東管領・上杉禅秀が幕府に反旗を翻す事件(上杉禅秀の乱)が起きるなど、義持の時代から、幕府の権威は緩やかに失墜していく。
義持の子で5代将軍となった義量が、後継者を定めぬまま満17歳で早世すると、政権に動揺が走った。
義持は未だ存命であったものの、義持の子供には義量の他に男子がいなかったのである。
石清水八幡宮における籤引きにより、幼少ノ頃に出家して天台座主(天台宗の諸末寺を監督する役職)となっていた義圓(3代将軍・義満の三男)が6代将軍に選ばれた。
義圓は還俗した後、足利義教(還俗直後は義宣)を名乗り、征夷大将軍に任命された。
義教はもともとは「天台開闢以来の逸材」と呼ばれる程に優れ、将来を嘱望されていた僧侶であった。
しかし将軍就任後、失墜した幕府権威を回復させるため、人が変わったように強権的な政策を打ち出していく。
義教は、幕府の権威を軽んじる者、将軍に服従しようとしない者を徹底的に容赦しなかった。
将軍就任から永享6年(1434)までの間に、義教によって粛清された人物は70名以上に上ったという。
永享10年(1438)、義教は幕府に反感を抱いていた鎌倉公方・足利持氏を討ち滅ぼし(永享の乱)、関東を平定。
その2年後には、有力守護の一色義貫、土岐持頼をも謀殺した。
義教のあまりにも独裁的な「恐怖政治」に、社会不安は一気に増大した。
代々侍所の所司を世襲してきた赤松満祐は、当初は幕府の長老格として義教によく仕えていたものの、やがて疑心暗鬼に駆られる様になる。
そして、嘉吉元年(1441)6月24日、自邸に招いて義教を暗殺した。
この事件を「嘉吉の乱(嘉吉の変)」という。
強権的な独裁者であった義教の死は、政権に大混乱をもたらした。
義教の恐怖政治によって保たれていた将軍の権威と、それに裏付けられた勢力均衡が完全に崩壊。
将軍後継者を巡る争いのみならず、有力守護大名家の家督争いが続々と噴出した。
その後、関東では享徳3年(1454)に鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲実を謀殺し、大乱が起きた(享徳の乱)。
紛争は関東地方全体に拡大。
混乱はなかなか治まらず、関東は一足早く戦国時代に突入したかのような様相を呈した。
嘉吉の乱で将軍の権威が衰退すると、有力守護の勢力の均衡が崩れ、後継者争いや権力争いが続出する。
幾つもの対立が積み重なり、大きく二派に分かれ、後の応仁の乱へと繋がった。
将軍暗殺以外にも室町幕府の衰退の原因は複数あったが、その一つに、経済政策の失敗が上げられる。
各地で徳政一揆が頻発し、やがて戦国大名が誕生する。
鎌倉時代から室町時代にかけて各地に増加した荘園は、皇族や貴族、有力な神社仏閣が領主層となっていた。
そして、領主層が生活していたのは、各地にある荘園ではなく京都である。
日本ではたびたび大規模なきき飢饉が発生したが、中でも1420年(応永2年)に発生した応永の大飢饉では、多くの餓死者を出し、人々は物資が集まる京都へ大量に流入した。
これによって、京都の米価は高騰することになった。
このような京都への人口流入は続き、京都の米価は高い水準が恒常化した。
これに困ったのが領主で、荘園から領主層への貢納は銭によって行われるようになっていたが、米価の安い地方の荘園で換金し、京都でその銭で米を購入すると、領主層が手にする米の量は目減りしてしまうことになる。
一方で、地方の村落で安い米を購入し、京都へ輸送すれば利益を得られるはずであった。
ところが、座が地域ごとに商工業の営業や販売権を握っていたため、荘園領主はこの米価の差額を利用した商売を展開できなかった。
このような地域間での価格差や商売の膠着化が続くなか、1428年(正長元年)に正長の徳政一揆が発生した。
徳政一揆とは、農民が起こした初めての一揆で、困窮した人々が土倉(金融業者、金銭を高利で貸与した)に対して債務放棄や債務免除を命じる徳政令の発布を求めて行う武力蜂起である。
また、土倉の他に、酒屋も貸金業を営んでいた。
室町幕府が主要財源としていた貨幣収入として、土倉と酒屋に対する課税があった。
つまり室町幕府と土倉は持ちつ持たれつの関係だったのである。
室町幕府は徳政を要求された際には、もし債務者が分一銭(債務額の1割)を幕府に上納すれば債務破棄を認め、また反対に貸金業者側が分一銭を幕府に上納した場合は債権を認めた。
室町幕府は、分一銭を上納した方の主張を認めたのである。
室町幕府では、金銭トラブルに関する民事訴訟は政所(幕府の司法機関)が担っていたが、6代将軍・足利義教は自ら裁定を下す体制を整えた。
ところが、1441年(嘉吉元年)に義教が暗殺されたことで、この体制は機能不全となった。
8代将軍義政は再び政所を裁許機関として位置付けし直した。
しかし、この体制も長続きせず、1467年(応仁元年)に応仁の乱が発生すると、守護大名の家でも分裂が発生し、やがて守護大名として領国を支配する者や在地領主の中で地域の支配を強める者が現れた。