遣隋使と遣唐使

遣隋使と遣唐使

先進文化を求め、命がけの渡海

遣隋使・遣唐使とは当時の中国へ派遣された遣使団。
先進国である隋や唐から先進技術や文化を求めて、西暦600年頃から894年のおよそ300年間、計23回に渡り日本から遣わされた。
航海の技術がまだまだ未熟だった時代に、沢山の若者が海を渡っていった。
>> 遣隋使と遣唐使の年表

7世紀初頭の東アジアと遣隋使『詳説日本史図録』

7世紀初頭の東アジアと遣隋使の移動ルート(『詳説日本史図録』山川出版より引用)

聖徳太子の遣隋使

聖徳太子が摂政だったころ、朝廷は4回の遣隋使を派遣した。
倭の五王が中国に遣使を派遣した5世紀依頼、途絶えていた中国との交渉を再開したのだ。
これは、大国であった隋の文化や技術を学ぶ目的もあったが、何よりも、当時の朝廷国内での影響力を維持するために、隋との国交が必要だった。
当時の日本国内において、まだまだ朝廷の権威は弱かった為、大国の後ろ盾を求めていたのだ。

実は一回返された?

一番最初、西暦600年に派遣された第一回遣隋使だが、これは日本側の記録である「日本書紀」にはそれらしい記述が見当たらない
しかし、中国の歴史書「隋書」には、隋の文帝が使者に日本の風俗を訪ねた様子が記されている。
この時、日本側は隋に、政治の行い方が分かっていない未開の国と判断されたのか、返されてしまったようだ。
朝廷にとっては屈辱的な出来事であった為、日本書紀には記されていないのだろう。

制度を整え、再び派遣

607年の第2回遣隋使では、小野妹子が「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」という有名な書き出しの国書を持って派遣された。
この文章に、日本と隋を同格と表現しているとし、隋の煬帝は激怒した。
しかし、当時の隋は、隣国の高句麗との戦争を控えていた。
よって、日本を敵にすることは出来なかったとも思われ、日本と隋との国交が無事に結ばれる事になった。

隋が滅び、次は遣唐使を派遣

その後、608年と614年にも遣隋使が派遣されたが、618年にが、当時の新興勢力だった唐に滅ぼされてしまう
これを受け、日本は外交先を唐へと変更、遣唐使を派遣する事で、朝廷は大陸の進んだ技術や知識などを取り入れていった。
630年に犬上御田鋤(いぬかみのみたすき)を大使する第一回から、約260年の間に19回(諸説あり)に渡って任命している。

唐・新羅・渤海と日本の関係『山川 詳説日本史図録』より

唐・新羅・渤海と日本の関係
7〜8世紀の東アジアでは、日本・新羅・渤海がそれぞれ唐に臣従して朝貢をおこなっているが、同時にこの3国は互いに使節を派遣しあっていた。日本では、その回数は遣唐使をしのぐほどで、このルートで活発な交易がおこなわれていた。(『山川 詳説日本史図録』より引用)

遣唐使の廃止

遣唐使は唐の文化や制度、そして仏教の日本へので伝播に大いに貢献した。
しかし、894年、菅原道真が唐の衰退や渡海の危険性を理由に再考を求め、以後廃止された。

未熟な航海技術と、風任せの船

遣唐使が乗っていた船は、通常4隻編成で航行され、1隻に100人程が乗船していた。
浅瀬に適した平底船が使用された為、横波に弱く、航海技術も未熟なため、基本的に風任せという、命がけの渡海であった。
4隻編成にしたのは、何も400人連れていきたかったからではない。
1隻でも目的地に付ければ良いという、大ばくちだったという。

復元された遣唐使船『山川 詳説日本史図録』

復元された遣唐使船
実物大の復元船遣唐使船は長さ約30m、幅7〜8m、帆柱2本で平底。鉄釘はほとんど使用されず、平板を継ぎ合わせてつくられていたらしい。当初は2隻、8世紀以降は4隻が派遣され、「四つの船」とよばれた。船1隻には大使をはじめとする使節団以外に、通訳・医師・細工師や留学生・学問僧、乗員の半数を占める船の漕ぎ手(水手)たちを含め、およそ120人ほどが乗船していた。写真は「遣唐使船再現プロジェクト」実行委員会が企画し、中国江蘇省の造船所で2010年に建造された復元船。(『山川 詳説日本史図録』より引用)

藤原清河

8世紀の遣唐使のうち、全ての船が往復出来たのは、たった一回だけだった。
鑑真一行が日本を目指し乗り合わせた752年の帰路は、帰国便4隻のうち大使・藤原清河(ふじわらのきよかわ)の船が南方マレー半島まで暴風に流され、漂着後に乗船者約200人の大半が殺害されたという。

遣唐使と遣隋使の年表

西暦 王朝 主な出来事
600年 初の遣隋使が派遣される。しかし、派遣された人物は不明で、文帝との面会は叶わなかった。
607年 第二回遣隋使として、小野妹子が派遣され、日本と隋による国交が樹立。
608年 第三回遣隋使として小野妹子、高向玄理、僧旻、南淵請安ら8人、隋へ留学する。
614年 第四回遣隋使として犬上御田鋤が派遣される。しかし、618年に隋が滅んでしまい、これが最後の遣隋使となった。
630年 第一回遣唐使として、犬上御田鋤が派遣される。
653年 第二回遣唐使が派遣される。
654年 第三回遣唐使として、高向玄理が派遣される。
659年 第四回遣唐使が派遣される。
665年 第五回遣唐使が派遣される。
669年 第六回遣唐使が派遣される。
702年 第七回遣唐使として、粟田真人、山上憶良が派遣される。
717年 第八回遣唐使として、阿倍仲麻呂、吉備真備、玄ム、井真成が派遣される。
733年 第九回遣唐使が派遣される。
746年 第十回遣唐使、派遣中止。
752年 第十一回遣唐使として、藤原清河、吉備真備が派遣される。
759年 第十二回遣唐使が派遣される。
761年 第十三回遣唐使が派遣される。
762年 第十四回遣唐使が派遣される。
777年 第十五回遣唐使、派遣中止。
779年 第十六回遣唐使、派遣中止。
804年 第十七回遣唐使として、最澄、空海、橘逸勢、霊仙が派遣される。
838年 第十八回遣唐使として、円仁が派遣される。
894年 第十九回遣唐使、菅原道真の建議により、派遣中止。
隋・唐との通交年表『詳説日本史図録』山川出版

隋・唐との通交年表
遣唐使派遣の目的当初は唐の制度・文物の導入にあり、同行した留学生・僧が帰国後にはたした政治・文化上の役割は大きかった。奈良時代には、東アジアでの日本の地位確保をめざす政治外交上の使命も重要となったが、のちには貿易利益の獲得も目的とするようになった。請益僧とは、短期留学の学問僧のこと。
『詳説日本史図録』山川出版より引用


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