菅原道真

菅原道真

菅原道真

学問と詩文に秀でており、現在では「学問の神様」として信仰される

西暦845年、菅原道真は奈良時代から続く学者の家に生まれた。
祖父と父ともに文章博士、式部大輔に任じており、道長も幼い頃より優れた文才を発揮したと云われる。
26歳で文章得業生(読み:もんじょうとくごうしょう。意味は当時の最高国家試験の事)に合格した。
順調に成長を続けた道長だったが、この頃よりその才能を疎まれ非難が多くなる。

宇多天皇、醍醐天皇に重用され、右大臣となった

阿衡事件を切っ掛けに、道真は宇多天皇の厚い信頼を得る事となり、蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢される。
さらに道真はここから異例ともいえる出世を重ね、政治の中枢にも関わる事なる。
遣唐大使に任じられた道真は、凋落してゆく唐を見逃さずここから学ぶものは無いと判断し遣唐使を廃止した。
この後も道真は、中納言や権大納言、右大将、東宮大夫、侍読とさらに昇進してゆく。
そして、醍醐天皇の代にもライバルである藤原時平と共に重用され右大臣となる。

藤原時平の中傷により太宰府へ左遷されてしまう

しかし、学者の生まれでありながら出世を重ねすぎた道真は多くの敵を作る結果ともなった。
ライバルであった藤原時平も例外ではなく、時平より無実の罪を着せられ、筑前国の太宰府へ左遷されてしまった。
そして、病を患った道真は、失意のまま59歳で亡くなった。
道真が不遇のうちに亡くなった後、都では不吉な事件が続発しており、道真の祟りだと朝廷では恐れられた。
そして道真は供養され、現在では学問の神として祀られている。



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