飛鳥文化

飛鳥文化

飛鳥文化とは、一般的に推古朝を中心とした7世紀前半の文化のことを指す。
寺院の造営に象徴される最初の仏教文化であり、最初の本格的な伽藍(がらん)をもった仏教寺院は、蘇我馬子の発願によって建立された飛鳥寺(法興寺・元興寺)であった。
他に飛鳥文化を代表するモノとして、法隆寺(斑鳩寺)四天王寺などの寺社、釈迦三尊像などの仏像が在る。

創建時の法興寺の伽藍の模型

創建時の法興寺の伽藍の模型(橿原市藤原京資料室蔵藤原京1/1000模型の一部)

飛鳥寺の造営

飛鳥寺造営の経過

飛鳥寺造営の経過は『日本書紀』に記されている。
崇峻元年(588)、百済から仏舎利とともに多くの僧・寺工・露盤博士・瓦博士・画工が送られ、蘇我馬子は飛鳥の真神原(まかみがはら)に飛鳥寺の造営を開始した。

推古天皇の時代に完成

崇峻3年10月、山に入って用材を切り出し、崇峻5年10月には金堂と回廊が完成した。
翌・推古元年(593)正月、塔の心礎に仏舎利を納めて心柱を立て、推古4年11月に塔が完成、伽藍の建立が終了した。
その後の推古13年4月、鞍作止利(くらつくりのとり:渡来系の仏師で、鞍作鳥とも記される)に仏像の造立を命じ、翌・推古14年4月に仏像が完成し金銅に安置された。

飛鳥寺は百済と高句麗の影響を受けていた

飛鳥寺の伽藍の配置は、昭和31年(1956)から33年(1958)に掛けて行われた発掘調査により明らかになる。
塔を中心に三つの金堂がそれを囲むという日本では他に例を見ない形式であった。
その形式は高句麗の清岩里廃寺と共通しており、飛鳥寺の造営には、百済だけではなく、高句麗の影響もあった事が判っている。
※百済の王都・シビ(扶余)に建立された王興寺と、飛鳥寺との共通点も多く発見されており、両者からの影響が強かった

飛鳥大仏

飛鳥寺の中金堂の跡には現在は安居院が建っており、そこに安置される釈迦如来像(飛鳥大仏)は当初の位置から動いていないと云われている。
よって、現代の飛鳥大仏は、推古の時代に鞍作止利によって造られた仏像の特色を今に伝えていると言えなくもない。
※ただし、鎌倉時代の火災で伽藍は焼失し、さらに江戸時代に現在の本堂が建立されるまで飛鳥大仏は石の台座の上で雨ざらしになっていたとされる。現在の大仏のうち、推古紀に造られたオリジナルの部分は顔と指の一部のみで、それ以外は後補(こうほ)されたものと考えられている。

釈迦如来像(飛鳥大仏)

釈迦如来像(飛鳥大仏)

法隆寺(斑鳩寺)

飛鳥文化を代表する寺院

飛鳥寺と並び飛鳥文化を代表する寺院として挙げられるのは先ずは法隆寺(斑鳩寺)だ。
法隆寺は聖徳太子(厩戸皇子)の発願によると伝えられる寺院で、現在の法隆寺は西院伽藍と東院伽藍からなっており、西院伽藍は中門を入ると西に塔、東に金堂という伽藍配置である。

建立から間もなく消失、再建された

しかし、『日本書紀』によると天智9年(670)4月壬申条に「夜半之後、災法隆寺、一屋無余(あかつき、法隆寺に災(ひつ)けり、一屋(ひとつのいえ)も余ること無し)」とあり、このとき、法隆寺は全焼してしまったと云う。
現在の西院伽藍が再建されたモノなのか否か、明治以来、法隆寺・再建非再建論争が続けられた。
昭和14年(1939)、西院伽藍に近接して存在した若草伽藍の発掘調査が行われ、塔と金堂とが一直線に並ぶ、正方位から西に約20度傾いた伽藍跡が見付かった。
また、出土した創建期の瓦の年代から、その伽藍(若草伽藍)は、西院伽藍に先行して造営された事も判っている。
つまり、消失後に再建された可能性が非常に高いといえよう。
しかし、再建時期についてはまだ明確になっていない。

四天王寺

こちらも聖徳太子の発願(らしい)

法隆寺は聖徳太子の発願によると伝えられているが、『日本書紀』には太子の発願と明記されているのは難波の四天王寺(荒陵寺)である。
これによると、用明2年(587)、物部守屋討伐軍に参加した聖徳太子は、戦況が良くないなか、木を切り取って小さな四天王像を造り、勝利したならば四天王のために寺を造ると誓い、その後、推古元年(593)に至り、四天王寺が建立されたと云われる。

創建時の四天王寺伽藍模型

創建時の四天王寺伽藍模型(大阪府立近つ飛鳥博物館展示)
南から北へ(画像では右から左へ)中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に配置されている

四天王寺は推古朝に建立

『日本書紀』の記述が事実か否かはともかく、四天王寺の建立が推古朝に遡る事は発掘調査で確認されている。
伽藍の配置は若草伽藍と同じで、建立時期は若草伽藍より僅かに遅れる時期であり、四天王寺は法隆寺より後に建立されたという事になる。

1934年以前の伽藍(日下部金兵衛)

1934年以前の伽藍(日下部金兵衛)

飛鳥の仏像と止利仏師

法隆寺金堂の釈迦三尊像

法隆寺金堂に安置される釈迦三尊像は飛鳥文化を代表する仏像である。
像の光背裏面に刻された銘文である光背銘(こうはいめい)によれば、推古30年(622)2月に聖徳太子が死去し、翌年にその冥福を祈って止利仏師(とりぶっし)にこの像を造らせたとのこと。※止利仏師とは鞍作止利を指す

飛鳥寺と法隆寺の釈迦像

“飛鳥寺の釈迦如来像”と“法隆寺金堂の釈迦三尊像”には共通性が見られる。
それらは止利様式と呼ばれ、中国北朝の造像様式の影響が強い。
止利様式には、ほほえみを浮かべた顔、衣文のひだ を左右対称に規則的に表すこと、前後の奥行きが乏しい、などの特徴がある。

その他、飛鳥文化の仏像

また金堂の四天王像(持国天、増長天、広目天、多聞天)、宝蔵に収められている百済観音像、夢殿の救世観音像なども飛鳥文化の作とされる仏像だ。※様式は釈迦三尊像とは異なる
四天王像のうち、広目天像と多聞天像には銘が刻まれており、作者の一人として名の記される「山口大口費(やまぐちのおおぐちあたい)」は、『日本書紀』白雉元年(650)是歳条において千体と仏像を造ったとみえる漢山口直大口(あやのやまぐちのあたいおおくち)と同一人物だと思われる。
※ただし、これらの仏像の制作されたのは七世紀後半に下るとする説もあり、明確にはわかっていない(中宮寺と広隆寺の半跏思惟像も同様)


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