白鳳文化とは天武・持統朝を中心とした時代の文化を指す。
厳密には白鳳文化の時代がいつからいつまでを指すかは明確ではないが、「645年(大化元年)の大化の改新から710年(和銅3年)の平城京遷都」あたりまでと考えて良いだろう。
白鳳文化は飛鳥文化と同様に仏教を中心とした文化であった。
しかし、飛鳥文化とは異なる点もあり、飛鳥文化が朝鮮半島諸国の影響のもとに形成されたのに対し、白鳳文化は中国の影響が強かった。
白鳳とは日本書紀に現れない元号(逸元号や私年号という)の一つなのだが、しかし、続日本紀には白鳳の元号が記されている。
これは、実際には天武天皇の時代に白鳳の元号が使われたのではないかと考えられており、白鳳文化もちょうどその時代に最盛期を迎えている。
「大化改新」の仏教政策としては、寺院造営の奨励とその統制とが挙げられる。
孝徳紀・大化元年(645)8月癸卯条によれば、僧尼を教導する十師を置き、福亮・僧旻・道登ら高僧10人をそれに任じた。
一方では、伴造(とものみやつこ)の氏(下級の氏)にいたるまで、氏寺の造営が出来ない場合はそれを援助するとし、寺ごとに寺司と寺主を任じた。
寺司は俗人を任じた寺の運営にあたる職で、寺主は僧侶を任じた寺の代表者であったと思われる。
また、来目臣(くめのおみ)ら三人を法頭に任じたとあり、法頭とは、推古朝の法頭と同様に諸寺の財政を統轄した職であったと思われる。
大化の改新で行われた寺院造営の奨励と統制という仏教政策はその後も継承され、天武・持統朝には寺院の造営は全国的に拡大、その数は500を超えたと考えられている。
僧尼を統制する制度も天武紀12年(683)3月己丑条に「僧正・僧都・律師を任命した」とあり、大宝律令下の僧綱制に通じる制度が整えられていった。
大王(おおきみ:天皇のこと)自身の発願によって建立された寺院は「国の大寺」と呼ばれ、官司によって管理・運営された。
天武・持統朝のときの「国の大寺」としては、舒明天皇の発願による百済大寺を継承した大官大寺(高市大寺、後の大安寺)、天智天皇が斉明天皇の死後にその冥福を祈って川原宮跡に建立した川原寺(弘福寺)、天武天皇が皇后(持統)の病気平癒のために発願した薬師寺の三寺が挙げられる。
飛鳥寺(元興寺)は蘇我氏の氏寺ではあったが、やはり「大寺」として官司による運営とされた(天武紀9年4月是月条)。
また天武・持統朝ではことあるごとに護国の経典である『金光明経』や『仁王経』が読誦されるようになり、仏教は“国家仏教”としての性格を強めていった。
白鳳寺院のうち、よく知られる例として薬師寺と山田寺が挙げられる。
薬師寺は天武が皇后(持統)の病気平癒のために建立を発願した寺で、『日本書紀』によると、その発願は天武9年(680)11月。
持統2年(688)正月には薬師寺で無遮大会(あらゆる人々に無制限に平等に布施を行う会)が設けられたと在り、この時には建築がかなり進んでいたと思われる。
その後、『続日本紀』文武2年(698)10月庚寅条に、薬師寺の構作がほぼ終わり、衆僧を住まわせたと記述。
さらにこの後も造営事業は続けられたようで、大宝元年(701)6月壬子条に「造薬師寺司が任命された」とある。
平城京遷都により薬師寺は平城京内にも建立され、藤原京の薬師寺は“本薬師寺”と呼ばれるようになった。
現在の薬師寺はその平城京内に建立された方の薬師寺だ。
東塔以外は創建時の建物が失われていたが、昭和46年(1971)より発掘調査に基づく復元工事が行われ、創建時の伽藍が復元された。
山田寺の造営経過については『上宮聖徳法王帝説』裏書に記されている。
蘇我石川麻呂の発願により、舒明13年(641)に造営が開始、皇極2年(643)に金堂が建ち、大化4年(648)に初めて僧が住んだ。
蘇我石川麻呂は大化5年に孝徳天皇から討たれてしまったが、その後も建築は続く。
天智2年(663)に塔の建立が始まって天武5年(676)に完成、さらに天武7年に丈六仏の鋳造をはじめ天武14年に開眼。
※丈六仏とは仏像の像高の一規準で、立像の高さが1丈6尺(約4.8m)ある仏像のこと
現在の山田寺は奈良県桜井市山田にある小堂であるが、発掘調査により、中門・塔・金堂が一直線に並び、回廊の外に講堂が置かれた伽藍配置が明らかになっている。
建立の順序も『上宮聖徳法王帝説』裏書に記されたとおり金堂が(回廊とともに)先に建てられ、塔は後に建立されていた。
白鳳期の仏像としては、興福寺の仏頭(先に述べた山田寺の丈六仏の頭部)、法隆寺の観音菩薩像や阿弥陀三尊像が挙げられる。
白鳳期の絵画としては、高松塚とキトラ古墳とその壁画が挙げられる。
両古墳はいずれも明日香村にある七世紀末から八世紀初頭の築造と推定されており、白鳳期に造られた可能性がある。
白鳳期には漢詩や和歌も詠まれるようになった。
『古事記』や『日本書紀』に載せられている歌謡(記紀歌謡)は集団全体の感情を表した歌であったが、漢詩や和歌は個人の感情を表現している。
『懐風藻』や『万葉集』はそれ時代は白鳳期とは別の時代(八世紀後半)だが、そのなかには大友皇子や額田王など白鳳期に活躍した人物の詩や歌が載せられている。
つまり漢詩や和歌は白鳳期には誕生していたということ。
白鳳期は中央集権的行政組織の整備に伴い、文字の使用が地方にも広がった時代であった。
命令を正確に伝達するためには文書が不可欠であり、また全国的に戸籍が作成された事が文字を地方へと普及させた。