飛鳥宮

飛鳥、古代日本の中心地

飛鳥の地は推古天皇から舒明・皇極・斉明・天武の5人の天皇が宮を置いた、古代日本の政治の中心地で、飛鳥で本格的な国造りが行われた。
ヤマト王権の有力豪族・蘇我氏の本拠地でもあった為、当時の天皇(大王)が蘇我氏を重要視して、この地に宮を置いた可能性もある。

飛鳥京跡周辺の地図『詳説日本史図録』山川出版

古代飛鳥の王宮
推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位して以降の約100年間、大王(天皇)の王宮は奈良盆地南部の飛鳥の地にあいついで営まれた。王宮の周囲に諸施設が整えられるにつれ、飛鳥は宮都としての様相を示すようになる
『詳説日本史図録』山川出版より引用

飛鳥京跡周辺の地図『詳説日本史図録』山川出版

飛鳥京跡周辺の地図、斉明天皇の時代
舒明朝以降、飛鳥の王宮はすべてほぼ同一の場所に営まれ、周囲には広場や苑池などの施設も設けられていった
『詳説日本史図録』山川出版より引用

「倭京」といわれた古代日本の中心地

天皇の住まい「宮」が多く存在した

飛鳥には、蘇我入鹿蝦夷父子が誅殺される乙巳の変の舞台となった飛鳥板蓋宮を含めた、少なくとも4つの天皇の住まい「宮」が存在していた。

日本書紀には「倭京」と記される

『日本書紀』ではこの地を「倭京」と記していた。
藤原京に遷都されるまでこの地が日本の政治の中心だった事から便宜上「飛鳥京」とか「飛鳥古京」とも呼ぶが、この名称は学術的には用いられない呼称だ。

「飛鳥」とはどの地域を指すのか

飛鳥とは、奈良盆地の東南部を占める地名であり、おおよそ現在の明日香村の飛鳥川流域の一帯に、大和三山(耳成山・畝傍山・天香久山)のあたりを含めた地域を指している。

渡来人が多く住んでいたとされる

古代から渡来人が多く居住していたとされ、いくつかある飛鳥の地名由来のひとつに、朝鮮半島からの渡来者が安らかに住むことができた土地を「安宿(あすか)」と称したことによるとも云われる。

天皇の宮が置かれた

約100年間、この地に歴代天皇が住んだ

飛鳥には、6世紀末から7世紀末にかけての約100年間、天皇の宮が多く置かれていた。
以下に天皇の宮を上げる。

  1. 推古天皇、豊浦宮・小墾田宮
  2. 舒明天皇、岡本宮・田中宮・厩坂宮
  3. 皇極天皇、板蓋宮
  4. 斉明天皇、川原宮・後岡本宮
  5. 天武天皇、浄御原宮

などがそれである。

古代飛鳥の王宮の位置『詳説日本史図録』山川出版

古代飛鳥の王宮の位置、推古天皇が豊浦宮で即位して以降(『詳説日本史図録』山川出版より引用)

飛鳥京、倭京、古京などと呼ばれる

これらの宮を総称して、飛鳥京跡とか飛鳥古京跡となどとも呼んでおり、宮のある一帯を飛鳥京と呼んでいる。
『日本書紀』などでは倭京と記述されていたりもしている。
また、壬申の乱の際には、荒田尾直赤麻呂が「古京」の守りを進言し、忌部首子人とともにその守備にあたっている。

藤原京遷都で天皇が飛鳥を去る

天武天皇の浄御原宮は、持統天皇に継承されるが、持統天皇はのちに694年(持統8年)に、初の都城制を備えた藤原京へ遷都する。
この間、宮が飛鳥を離れたのは、孝徳天皇のときの難波宮、天智天皇(弘文)の大津宮の約15年にすぎない。

飛鳥に多くの宮が置かれた理由

防衛上、護りやすかった為

飛鳥に長期間に渡って転々と宮が築かれた理由については、幾つかの事が上げられる。
そのひとつは、防衛上の利点である。
飛鳥は、大和三山や飛鳥川などが所在していて、軍事的に見て守りやすかった。

風水上、良い土地だった

地形上では、風水上の理由も上げられる。
風水でいうと、北・東西は山で囲まれ、北西から東南に向かって川が流れているのが吉とされる。
これを例えば、板蓋宮に当てはめると、北に天香久山、東に多武峰、西に甘樫丘を望み、北西から東南に向かって飛鳥川が流れており、地形的に吉とされる。

豪族たちの事情から

当時、大豪族であった蘇我氏の影響も在ったと考えられる。
蘇我氏は、氏寺である飛鳥寺などが立つ飛鳥が拠点であり、そこに宮を造らせたというのである。
この点については、単に蘇我氏のみならず、巨勢氏、阿倍氏、大伴氏などの有力豪族や東漢氏といった渡来系氏族の拠点とも近い場所にあることから、諸豪族のバランスがとれた地であったとも指摘されている。

交通の都合上

交通の要地であった事もあげられている。
飛鳥は、奈良盆地を南北に通る上ツ道・中ツ道・下ツ道といった古代における3つの大道に近い地である上に、盆地を東西に走る横大路にもさほど遠くなく東国や大陸への玄関口である難波へ行くのにも便利な立地にある。

複数の事情が在ったと思われる

飛鳥の地が選ばれ続けた理由は以上のように複数の利点が見付かる。
これらの点から、いずれかひとつの理由からではなく、いくつかの利便性がからみ合って飛鳥という地域に宮が造られ続けられたのであろう。

乙巳の変、大極殿はまだなかった

飛鳥板蓋宮で暗殺事件

皇極天皇が即位して4年目の大化元年(645年)の6月12日、板蓋宮で蘇我入鹿が中大兄皇子(後の天智天皇)らによって暗殺される大事件が起きた。
大化改新の発端となった乙巳の変である。

飛鳥板蓋宮に大極殿はなかった

入鹿は飛鳥板蓋宮の大極殿で斬殺されたと『日本書紀』には記されている。
ただし、飛鳥板蓋宮には大極殿にあたる建物はまだなかったとみられている。
なぜ『日本書紀』がそう記したか正確には分からないが、天武天皇の時代には大極殿を想わせる大きさの建物が存在した。

3期に分かれる飛鳥宮跡

飛鳥京の中心を占める飛鳥宮跡は、6世紀末から7世紀後半までの宮殿遺構とされている。
その中でも地元では、古くから皇極天皇の板蓋宮の跡地であると伝承されてきた地域がある。
1959年(昭和34)からこの地域の発掘調査が開始され、ここには時期の異なる遺構が複合的に存在することがわかってきた。

T期・U期・V期の3つに分類

  • T期【岡本宮】630年〜636年
  • U期【板蓋宮】643年〜645年+655年
  • V期【後岡本宮】656年〜660年【浄御原宮】672年〜694年

発掘当初は「伝飛鳥板蓋宮跡」として国の史跡に指定されたが、この遺構が複合遺構だということが判明したため、2016年(平成25年)に指定名称が「飛鳥宮跡」に変更された。

岡本宮は舒明天皇の宮

岡本宮は舒明天皇の宮であり、天皇は629年(舒明元年)正月に即位して、翌年10月、雷丘のふもとに宮を造り岡本宮とした。
岡本宮は舒明8年6月に火災によって焼失したため、天皇は田中宮へ遷った。

板蓋宮は皇極天皇の宮

板蓋宮は、舒明天皇の皇后・皇極が舒明の死後、即位して643年(皇極2年)4月に宮とした。
さらに、皇極天皇は、654年(白雉5年)に孝徳天皇が死去すると、655年(斉明元年)正月、板蓋宮で重祚して斉明天皇となった。

板蓋宮という名称の由来は、当時、檜皮葺が一般的であったのに対して、あえて板を用いて屋根を葺いた事によるとされる。
しかし、同年、板蓋宮が焼失してしまったため、天皇は川原宮を宮とし、斉明2年に後岡本宮へ遷った。

大極殿は天武の飛鳥浄御原宮から

大極殿が造られ始めるのは、天武天皇の飛鳥浄御原宮、もしくは次の持統天皇の藤原京である。

岡本宮、板蓋宮、後岡本宮

3つの宮が同所にある理由

岡本宮は舒明天皇の宮で、そして、皇極天皇は舒明天皇の皇后であることを踏まえると、皇極天皇が夫の宮と同じ場所に板蓋宮を営んだ事が考えられる。
皇極天皇が重祚して斉明天皇となった際、宮とした板蓋宮が焼失したおり、岡本宮・板蓋宮と同じ場所に後岡本宮を造ったのも、同じ理由からだろう。


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