律令国家の始まり

律令国家の始まり

大臣蘇我氏を打ち倒した乙巳の変(645年)から、中央主権国家への改革が始まる。
中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。

天皇を凌ぐ権力を握り暴走する蘇我氏

皇極天皇のとき、大臣蘇我氏の権勢は最高潮に達した。
蘇我入鹿は天皇の飛鳥板葺宮を見下ろせる甘樫丘に、父・蝦夷と自分の邸宅を築いた。
蝦夷の家を「上の宮門」、入鹿の家を「谷の宮門」、子供たちを王子(みこ)と呼んだという。
これは、いずれも天皇と同格である事を意味する呼称である。

独占的な蘇我氏への不満が高まっていた

入鹿の強引なやり方は、反対勢力の結集を促した。
その中心になったのが中大兄皇子と中臣鎌足だった。
二人は蘇我倉山田石川麻呂に接近し承諾をもらうと、佐伯氏や葛城氏などの支持も取り付けた。

入鹿を呼び出す暗殺計画

クーデター派は大化元年(645年)6月「三韓(高句麗・新羅・百済)の調(貢物の捧げる儀式)」を名目にして、板葺宮の大極殿に入鹿を誘き出した。
皇子らは俳優(わざひと:道化師)に命じて入鹿に剣を外させ、門を堅めて助けを呼べないようにした。
実行部隊は、佐伯連子麻呂と葛城稚犬養網田であった。
中大兄皇子は長槍を持って身を潜め、鎌足は皇子の警護にあたった。

皇極天皇の前で儀式は始まった。
石川麻呂が上表文を読み終わりそうになっても、子麻呂らは飛び出してこない。
石川麻呂は焦って声がかすれ、手が震える。
不審に思った入鹿が「どうしたのか」と問うと、石川麻呂は「天皇の御傍にいる事に緊張しまして」と答えた。

蘇我氏を滅ぼした中大兄は中央主権国家を目指して改革

中大兄皇子は子麻呂らが委縮して動けないのを見て、自ら入鹿に向って突進した。
子麻呂らも付き従った。
中大兄皇子の一撃は外れたが、子麻呂が入鹿の足に切り付け、入鹿は転倒する。
皇極天皇は目の前の出来事に驚いたが、中大兄皇子が「入鹿は皇族を滅ぼし、皇位を傾けようとしています。」と答えると、その場から立ち去った。
子麻呂と網田が止めを刺し、入鹿は息絶えた。

蘇我氏の滅亡

蝦夷は一族や仲間を集めて最後の決戦を行おうとしたが、既に人心は離れていた。
一旦は蝦夷の屋敷に集まった者も武器を捨て去っていった。
死を覚悟した蝦夷は屋敷に火を放ち、天皇を凌ぐ権勢を誇った蘇我氏本家も終焉を迎えた。
このクーデターが「乙巳の変」である。

喪失した二つの歴史書

実際、蘇我氏の邸宅跡とみられる甘樫丘東麓遺跡からは発掘によって火災の痕跡が見付かっている。
なお、燃え盛る屋敷からは、蘇我馬子らが編纂した史書「天皇記」「国記」が持ち出されたという。
この二書は現存しないが、後に『日本書紀』を編纂する際に参考にされている。

中大兄皇子の下、日本は律令国家へ

中大兄皇子はその後20年以上即位しない。
その理由は、一説には、変の首謀者が軽皇子(孝徳天皇)だったからともいわれる。
とはいえ、中大兄皇子は皇太子として実権を掌握し、都を飛鳥から難波に移して「改新の詔」を公布。
唐に範をとった中央集権国家の建設を目指した。
孝徳天皇との対立など、その後も混乱はあるが、中大兄皇子の下、日本は律令国家への道を歩み始めた。


↑ページTOPへ