山背大兄王

山背大兄王【聖徳太子の長子】

政争に敗れ、悲運の最期を迎える

山背大兄王(やましろのおおえのおう:生年不明〜643年)は飛鳥時代聖徳太子(厩戸皇子)の子。
父・聖徳太子が摂政を務めた33代・推古天皇の後継者と目されたが、従兄弟に当たる蘇我入鹿の計略によって悲運の最期を迎える。

山背大兄王

山背大兄王※7世紀頃の別人説があり
「聖徳太子二王子像」(模本) 江戸時代 天保13年(1842)狩野(晴川院)養信筆

推古天皇の時代に生まれ育つ

推古天皇の即位後、ヤマト政権は推古天皇蘇我馬子、そして厩戸皇子(聖徳太子)の三人によって政治が執り行われた。
女帝であった推古天皇は聖徳太子が即位するまでの中継ぎだったとの見方もあるが、推古本人も十分に実力を備えていた。
十七条憲法の制定や遣隋使の派遣などは聖徳太子の実績と見られがちであるが、時期的に考えても推古や馬子が無関係だったと思えない。

当時のヤマト政権が目指していたもの

この三人は天皇を中心とした中央集権体制を目指していた。
中国を統一した隋が勢力を伸ばし、朝鮮半島でも高句麗・百済・新羅が対立している状況下にあって国を守るには、群臣や地方勢力である豪族が一丸となる必要があったからだ。

推古の後継者として有力視

推古が崩御、頭角を現すかと思われた

だが、622年(推古30年)に聖徳太子は没し、4年後の626年に馬子も死去、さらに2年後の628年に推古天皇が崩御した。
そして、推古天皇の後継者として有力視されたのが、聖徳太子の長子の山背大兄王であった。

蘇我入鹿とは従兄弟

山背大兄王は31代・用明天皇の孫であり、母親は蘇我馬子の娘であった。(つまり蘇我入鹿は従兄弟)
彼は学問にも秀でており、周囲の人望も厚かったとされる。

ライバルに天皇の座を奪われる

別の天皇の孫が立ちはだかる

山背大兄王は天皇の最有力候補とされていたが、対抗馬として彼の前に立ちはだかったのが田村皇子であった。
田村皇子は30代・敏達天皇の孫であり、血筋としては山背大兄王と比較しても遜色はない。

田村皇子が34代天皇に即位

この後継者争いは馬子の子である蘇我蝦夷が田村皇子を支持した事で決着が付いた。
629年(舒明元年)2月、田村皇子は34代・舒明天皇として即位し、山背大兄王は斑鳩の宮に退くことになる。

山背大兄王、自害

舒明の次に皇后が皇極天皇として即位

舒明天皇は641年(舒明13年)に崩御した。
そして次に即位したのは舒明の皇后だった皇極天皇であった。

蘇我入鹿の軍が山背大兄王を襲撃

643年(皇極2年)、蘇我入鹿の命により、突如として斑鳩宮を100人の軍勢が襲撃した。
山背大兄王は一族と家臣らを連れて斑鳩宮を脱出し、生駒山に逃亡した。

聖徳太子の血筋が滅ぶ

逃亡後、山背大兄王の家臣であった三輪文屋君は、東国での立て直し入鹿と戦うことを進言したが、山背大兄王は国内が乱れるとしてこれを拒否する。
そして、山背大兄王は斑鳩に戻り、一族全員が首をくくって自害した。
生き延びた子孫はなく、上宮王家と呼ばれる聖徳太子の直系は滅亡した

山背大兄王の像(向かって左)

山背大兄王の像(向かって左)
『南都十大寺大鏡 第5輯』


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