飛鳥時代の外交

飛鳥時代の外交

飛鳥時代、推古天皇聖徳太子は、日本と外交関係が断絶していた中国との国交回復を模索する。
中国大陸の隋朝に対し遣隋使を派遣、対等な関係による国交を実現した。
隋を滅ぼした唐に対しても遣唐使を派遣し国交を維持、白村江の戦いで関係が悪化してしまうが、その後も国交は維持された。

日中関係は断絶していた

古墳時代、日中関係が悪化し国交断絶

古墳時代の478年を最後に日本(倭国)と中国との国交は断絶していた。
当時の日本は、中国南朝の劉宋朝に対し「倭国と高句麗が戦いになったら倭国を支持してほしい」と願い出ていたが、劉宋朝は拒否する。
劉宋朝(中国)は日本より高句麗を重視していたため当然の結果とも言えるが、以降、日中は国交が断絶していた。

自我に目覚め始めていた日本

中国との国交が絶えた後の日本では、大王(天皇)を「一つの天下の主」とする意識が高まっていた。
それは日本が「中国(大陸世界)から自立した国だ」と考えていたからだ。
この考えがやがて、推古朝・聖徳太子による中国との対等外交に繋がっていく事となる。

隋と対等国交を実現

隋との国交を望む推古朝

589年、中国では南北朝の長期の抗争が終わり、隋朝による全土の統一が成されていた。
そこで推古朝・聖徳太子は、隋朝との国交を開き、留学生・留学僧を送り込みたいと考えるようになっていた。

外交の下準備として、国内制度を整えていた

推古天皇のもとで摂政に任じられていた聖徳太子(厩戸皇子)は、内政にも力を入れていた。
官僚の地位を明らかにする冠位十二階を定め、その官僚らが守るべき教えを『十七条憲法』にまとめた。
太子はこの他にも文化の育成や仏教興隆にも力を入れた。
先ずは国内制度を確り整えてこそ、中国との対等外交に望めるというモノだ。

もう中国に臣従する事はできない

日本は中国との外交関係の樹立を望んでいたが、かといって、倭の五王の様に中国に臣従する形をとると日本の支配層が納得しない。
日本では自国を一つの独立した「天下」とする考えが広まっていたからだ。

外国に対して「天王」を名乗り始める

当時の日本は、朝鮮三国に対しても「天王(てんおう)」との君主号を用いるようになっていた。
「天王(てんおう)」とは南北朝時代の中国でつくられた称号だ。
それは「皇帝」よりは格下だったが「王」よりは上位の君主号だった。

隋へ接近、学僧を派遣

「いまさら天皇が百済王や新羅王と同格の“倭王”になるわけにはいかない」と考えていたであろう太子らは中国に対して接近。
まず600年に側近の学僧を中国に送り、隋の政情を探らせた。
※中国側の史書にはこのとき倭国は外交に失敗、中国側から対等外交などは到底出来ないと返されたとある

遣隋使・小野妹子を派遣

そして607年には、小野妹子を朝廷の正式な使節である遣隋使として中国に派遣した。
このとき朝廷は妹子に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」の文章で始まる国書を持たせている。

日中対等国交が成立

隋の皇帝・煬帝は対等な国交を望む日本に対して難色を示したが、しかし、中国側は日本との対等な関係を認める事となった。
この時期の隋は朝鮮半島の高句麗を対立しており、日本を味方に付けざるを得ない状態だったからだ。
そして煬帝は「日本は中国の支配の外にある」として、日本が中国皇帝に臣従しない形での国交を認めたのである。

隋の次は遣唐使を派遣

隋が滅んでも次の唐に遣使を派遣

その後、608年と614年にも遣隋使が派遣されたが、618年に隋が当時の新興勢力だった唐に滅ぼされてしまう。
これを受け、日本は外交先を唐へと変更、遣唐使を派遣する事で、朝廷は大陸の進んだ技術や知識などを取り入れていった。

白村江の戦い

中国(唐)との関係が再び悪化

唐・新羅に攻められた百済を支援する為に日本は援軍を送るが、戦には敗北し、百済は滅び、さらに唐との関係も悪化する。
この敗北を受けて日本は国内の防御を固めると同時に中国・唐との関係回復にも動き出す。

天智天皇が関係修復を図るも…

唐が倭国(日本)を討伐するという噂話まで流布するなか、天智天皇は唐との関係を回復する為、669年に正式な遣唐使を派遣する。
しかし、天智は唐との関係回復にはこぎ着けなかった。
さらに、天武天皇持統天皇の時代には遣唐使の派遣まで中断、またも日中関係は暗礁に乗り上げる事になった。

文武天皇によって関係修復

まもなく702年に文武天皇によって遣唐使が再開、無事に唐との国交を回復した。
以降の日中関係は、平安時代の初頭に遣唐使の派遣が中断されるまで続いていく事となる。


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