藤原京への遷都

藤原京への遷都

藤原京は中国の都城制を模して造られた日本初の条坊制を敷いた本格的な都城。
天武天皇が造営を発案し、天武の后であった持統天皇が694年に飛鳥から藤原京に遷都した。
しかし、藤原京はわずか16年間だけ使われただけで、持統・文武・元明の三代の宮として使われた後は、平城京へ遷都された。

藤原から平城への遷都は『続日本紀』に

続日本紀』は平安時代初期の延暦16年(797年)に編纂され、第42代・文武天皇(持統天皇の孫)から第50代・桓武天皇の治世下、文武元年(697年)から延暦10年(791年)までを記している。
そのなかで、藤原京から平城京への遷都が成された時代は、第48代・称徳天皇(女帝)の時代であった。

歴史の転換点『続日本紀』の時代

藤原京と平城京に都が置かれた時代は「律令制度が完成した」時代であったとも言え、日本という国が集団から国家へと進化する「歴史の転換点」でもあった。

日本初の永久都城を目指した藤原京

壬申の乱の直後、天武天皇は都を近江の大津宮(滋賀県大津市)から飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に遷す。
その後、天武は皇族だけで政局を牛耳る極端な独裁制を敷いたという。
ただし、それは律令制度を整えるまでの暫定的な措置であった。
その過程で日本初の永久都城の造営が計画、それが藤原宮と藤原京である。

大きさ

藤原宮(奈良県橿原市)は一キロ四方を外濠に囲まれており、藤原京全体は南北約4.8キロ・東西約5.2キロ(南北十条・東西十坊)ほど。
一般の都城の場合は一番北側の中央に宮が築かれるが、藤原京の場合はほぼ中央に宮が置かれていた。

永久都城といえる理由

なぜ藤原京が永久都城(を目指していた)かというと、それ以前の飛鳥浄御原宮(奈良県高市郡明日香村)・近江大津宮・難波長柄豊碕宮(大阪市)などが掘立柱であったのに対し、藤原宮は礎石を敷き瓦を葺いていた事が挙げられる。
また、天皇の住まいと官庁が備えられた藤原宮を中心にして、都市計画に沿った広大な居住地域が条坊制に則って配置されていた。
後の平城京・長岡京・平安京と比べても遜色ない大きさを備えてたのだ。

藤原京の“形”は税制の目盛り

なぜ東西南北の九十度に交わる道を造り、同様に街を区切ったのか、それは律令制度と深く関わっていた。
律令制度は「明文法(律=刑法と令=行政法)」を用いて民を支配していたが、土地制度や税制度も兼ねていた。
土地を国家が管理し、戸籍を作り、人数に応じて農地を分配し、収穫の一部を取り立てる税制の基礎となる区割り(条理)を造る必要があった。
その「起点」となるのが都城であり、そこに碁盤の目の様に引かれた条坊は国土の「尺」を決める目盛りでもあった。

計画的な造営だった

藤原以前の宮にもあった交差点

それ以前の「宮処(京師)」は四至京制(ししきょうせい:四至とは東西南北の境界)という四方の角に境界となる四つの衢(ちまた:交差点のこと)があった。
中でも五世紀末から六世紀末頃に掛けては、奈良盆地南部の「磐余(いわれ)」を中心に、天皇(大王)の代替わりの度に、そうした宮が幾つも造られていた。
飛鳥時代の倭京(やまとのみやこ)も、軽衢(かるのちまた)も、海石榴市衢(つばいちのちまた)なども四つの衢を持っていたようだ。

藤原京に向け、道が長期的に整備

六世紀末に推古天皇が豊浦宮(奈良県高市郡明日香村)で即位してから藤原京に都が遷されるまで、宮は飛鳥に集中して造られており、大和の古道である上ツ道・中ツ道・下ツ道・横大路が整備されて、都城造りの基礎固めは進んでいた。
この飛鳥の発展の延長上に藤原京造営という偉業が位置していたとも考える事ができる。

神聖な大和三山に囲まれていた

藤原宮は大和三山(天香久山・畝傍山・耳成山)に囲まれていた。
大和三山は山頂を結んだ線がキレイな二等辺三角形をしており、藤原宮の大極殿はその垂心に位置しており、高度な測量技術が導入された。
また、万葉集にも大和三山を意識して京の中心が建てられた事を匂わせる歌もあった(藤原宮の御井の歌)。

東方の三つの神山

なぜ大和三山が重視されたかは、道教の影響があったと考えられる。
道教には、(中国から見て)東方の方角に三つの神山(蓬莱、方丈、瀛洲)があり仙人が住んでいる、という思想があった。
天武天皇は道教を強く意識しており、藤原京の造営を発案した天武が三つの神山を意識したのかも知れない。

藤原京造営の謎

『日本書紀』では藤原京とは呼ばれない

藤原京の造営に関して幾つかの謎が残されている。
『日本書紀』では「藤原“宮”」の名は使われているのだが、京域に関しては「藤原京」とは呼ばず「京(みやこ)」「京師(みやこ)」「新益京(あらましのみやこ)」と呼ばれている。
藤原京という固有名詞は日本書紀では使われていない。

何処を指すか分からない「新城」の表記

『日本書紀』天武5年(676年)是の歳の条に「新城に都つくらむとす」とあるが、この「新城」が藤原京を指しているのかどうかが分ってはいない。
新都の造営が企図されていた事は間違いないのだが、何処なのかが『日本書紀』からは明確に読み取る事が出来ない。(奈良県大和郡山市新木町(旧新木村)ではないかともいわれる)

『日本書紀』は事実を伝えていない?

日本書紀において「藤原の宮地」という藤原京を指す言葉が初めて出て来るのは持統4年(690年)10月の事で、その後の持統8年(694年)12月に藤原宮に遷ったとある。
天武天皇は686年に既に没しており、日本書紀の記述をそのまま読むと、藤原京の造営を発案したはずの天武が造営にほぼ関わっていなかった事になる。
ただ、考古学によって日本書紀が藤原京に関して何かを隠している事が分って来ており、何か政治的な事情から歴史が書き換えられたのかも知れない。

天武と藤原京

天武が藤原造営に関わっていた可能性

戦後の発掘調査によって、藤原京の造営は天武天皇の時代に始まっていた可能性が指摘される。
天武崩御の直後に造られた大内陵と薬師寺は、どちらも藤原京の条坊の上にしっかりと並んでいたのだ。
天武の時代に既に都城の碁盤目の条坊の設計図が存在していたと思われる。

天武が水沼を都城に変えた?

天武を称える万葉歌「大君は神にし坐せば赤駒の匍匐ふ田井を都となしつ」「大君は神に坐せば水鳥の多集く水沼を都となしつ」に出て来る「都」が飛鳥浄御原宮ではなく藤原宮を指していたとも考えられる。
飛鳥浄御原宮の西北方に広がっていた、水鳥の集まる手の付けられないような湿地帯を、天武が見事に都城に造り替えた様を詠ったのかも知れない。

派閥争いによって歴史が改竄?

天武天皇崩御の後に即位した持統天皇(天武の后)は天智天皇の娘で、天武と天智は兄弟でありながら敵対、親・蘇我派(天武)と反・蘇我派(天智)がそれぞれを後押ししていた。
そして日本書紀は反・天武(反・蘇我派)の政権が記した為、天武の手柄は記述されなかったのだろう。

天武が建設していた巨大道路

天武は、藤原京を起点として東北から九州までの総延長6300キロに及ぶ「駅路(巨大道路網)」を造り始めていた。
しかしその駅路の存在も日本書紀には記されておらず(考古学によって発見された)、やはり天武の功績は意図的に排除されていたようだ。
天武が建設していた駅路は幅が最小でも6m、最大30m超の道路で、江戸幕府が整備した五街道さえも凌いでいた。
そして、律令制の終焉とともに平安時代中期に廃絶された。

元明天皇が藤原から平城へ遷都

日本初の永久都城であった藤原京は、持統天皇の妹の元明天皇によって遷都される。
元明天皇は遷都に対しあまり積極的ではなかったようだが、藤原不比等らの意向もあり平城京へ遷都された。


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