藤原京は第41代持統天皇によって造営された初の本格的な都であったが、694年に遷都されてからわずか十数年で次の平城京への遷都が成された。
なぜ藤原京はここまでの短命の都になってしまったのか?
藤原京の造営を企画したのは天武天皇で、天武の時代には既に工事は始まっていた。
名称に「藤原」と入るため藤原氏に所以が在ると考えてしまうが、実際には計画段階での藤原京は「親蘇我政権の夢の都」だったという。
しかし、完成を待たずに大津皇子(天武天皇と大田皇女の子)は殺害され、持統天皇と藤原不比等が実権を握り、高市皇子(天武天皇の子)も不審死を遂げる。
さらに珂瑠皇子(持統天皇の孫)が強硬な手段で立太子し、親蘇我派は次第に追い詰められていった。
こうして藤原京は天武の王家や親蘇我派たちにとっては悪夢のような都へと変わってしまった。
天武天皇と藤原京の繋がりが忘れ去られてしまった理由は他にもある。
『日本書紀』の編纂を命じたのは天武天皇であったが、それが編纂されたときの政権は反・天武、すなわち反・蘇我政権であった。
その為、手柄を横取りされてしまったといえる。
一方、藤原不比等は、藤原京の時代に力を蓄えていくが、それと同時に、藤原京が次第に住み難くなってしまう。
藤原京はあくまで親蘇我派の勢力によって造られた都だった事もあり、結局は藤原不比等は遷都を望む事となる。
藤原京が僅か16年の短命に終わった理由に付いては諸説ある。
など諸説が在る。
藤原不比等は蘇我氏の地盤を捨て、藤原氏だけが栄える都を必要としていた可能性がある。
藤原不比等は朝廷内で主導権を握りつつあり、藤原京は完成後、間もなく捨てられてしまった。
藤原京から遷都された平城京が「藤原氏のための都」であった事はその平城京の形からも見て取れた。
平城京内の、平城宮の一等地に藤原不比等の邸宅が置かれていた。
後に娘の光明子(聖武天皇の皇后)が相続し、法華寺(ほっけじ:法華滅罪之寺)という寺に建て替えている。
ここを押えたというだけでも藤原不比等は歴史の勝者といえ、権力者の地位を獲得した証左である。
通常、都城とは左右対称に造られるが、平城京の場合は北東に面して四角いスペースが用意されていた。
これが外京で、現在ではこの一角が奈良市の官庁街と繁華街になっている。
なぜ平城京の中心・平城宮ではなく、外京だった場所が栄えたかといえば、ここが高台だったからだ。
つまり、平城京の一等地は平城宮ではなく外京だったのだ。
そして、その外京に藤原氏が居座っていた。
特別に用意された外京の中でも、藤原氏が氏寺まで建てて居座ったのは、天皇の住む宮を見下ろす高台だった。
逆に天皇は、東から昇る太陽を拝むとき、藤原氏の氏寺の興福寺を仰ぎ見る形となっていた。
平城京は当時の日本の本当の支配者が誰であったかを示す形を目指していた。