三種の神器は、日本神話において天孫降臨の際、天照大神が天孫ニニギに授けた三種類の宝物【八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉】のこと。
践祚の際、勾玉(本物)と、鏡と剣の形代(レプリカ)が次代の天皇の証しとして継承される。現代においても「剣璽等承継の儀(剣璽渡御の儀)」により、天皇に受け継がれている三種の神器。皇位継承に欠かせない神宝であるが、その実態については不明な点が多い。
天皇の生前退位と皇位継承が行われる際、前天皇の御退位に伴い、皇太子に皇位を継がれる。
新たな天皇による最初の国事行為は、政府が閣議決定した「剣璽等承継の儀(けんじとうしょうけいのぎ)」執行の書類を決裁し、その儀式に臨むことである。(もともとは「剣璽渡御の儀(けんじとぎょのぎ」と呼んだ)(“等”が入る意味)
それは簡素な次第の儀式だが、新天皇の即位とともに行われるべき重要な意味と歴史がある。
剣璽等承継の儀とは、皇室伝来の「三種神器」のうち、剣(草薙剣)と璽(八尺瓊勾玉:八坂瓊曲玉)の継承を中心とし(天皇印の御璽と国印の国璽が“等”)、ここに八咫鏡は登場しないが、実質的には、神鏡・神剣・神璽(しんじ:八尺瓊勾玉)といった三種の神器が新天皇に受け継がれることになる。
儀式には当然ながら変遷があり、126代の歴代天皇すべてがこのような神器の継承を経ているのではない。
だが儀式の本質、天皇のしるしとしての品を継承するということそのものは、遅くとも飛鳥時代の頃から変わっていない。
現在の皇室に伝わる八咫鏡は、伊勢の神宮の内宮に天照大神の御神体として祀られている神鏡の“分身”で、同じく皇室の草薙剣は熱田神宮御神体の“分身”とされ、勾玉のみ本体が皇室に伝わる。
つまり、神器は1か所に同じ場所では保管されないし、“分身”が用意されるのは普通な事でもあった。
神器の本体を宮中から離したことに疑問が持たれることは多い。しかし、神聖なものを遠ざけるという発想は珍しいことではない。
御神体が人の眼から秘匿されたり、容易に近づけない峻厳な山頂に奥宮が祀られるように、神聖ゆえに隔離という方策はよくとられる。
しかし、交流が完全に遮断されてはならないので、間を取り持つ必要がある。その役割をこなすのが神社でいえば里宮、仏像でいえば秘仏に対する御前立、神器なら宮中の分身である。
神器に関しては、こうして分身を造っておいたことで、本物は(おそらく)無事に保管され続けているのだ。
神器が重要視される理由は、皇室の祖先神とされる天照が地上に降臨する孫のニニギに「三種の宝物」として神器を授けた為で、とくに神鏡については「私の魂として」住居と同じ御殿に祀りなさいと命じたという。(伊勢の神宮の祭神は天照、伊勢の神宮には天照と神鏡が共に祀られている)
>> 天照が伊勢に祀られた理由
平安時代以降、皇室の神鏡は温明殿(うんめいでん)に奉斎され、神剣と神璽(勾玉)は天皇を守護する品として常に身近に置かれている。
戦前まで天皇が一泊以上の行幸をされる際には、必ず剣璽(剣と玉)も伴われる慣わしだった。
したがって、安徳天皇を擁する平家が劣勢となって西走した際も、当然のように三種の神器は天皇とともにあった。
そしてこの間、都では後鳥羽天皇が神器のないままで即位することになり、「希代の珍事」(『玉葉』)と評されている。
明文化はされていないが、神器は皇位の証なのである。ゆえに皇位の在り方に混乱が生じたとき、神器の在り方にも混乱が発生する。
その混乱がもっとも甚だしかったのが後醍醐天皇および以降の南北朝時代といえる。 いわば神器の奪い合いが起こり、鎌倉幕府への倒幕計画が発覚して後醍醐天皇が捕らえられたとき、隠岐から脱出して帰京したとき、建武新政の失敗後に足利尊氏と和睦して京に入ったときなど、自身が保持していた神器や北朝側に渡った神器のいずれが本物か偽物か、かなり錯綜した状況となった。
南北朝の合一が成った1392年、南朝所有の神器が北朝側に渡り、いったんは落ち着きを見せる。
しかし不遇に憤懣を抱いた南朝(後南朝)側により内裏が襲撃され、結果、15年もの間、勾玉のみは吉野の後南朝皇胤のもとに留まることになる。
問題が解決したのは都の後花園天皇が発した勅命の下、後南朝を襲撃することによる奪還だった。
天皇が天皇たり得るには、権威の裏打ちとなる神器が必要である。
近年における宮中の神剣と勾玉は、普段は天皇と皇后の寝室の隣に設えられた「剣璽の間」に奉斎され、祭祀や伊勢神宮ご訪問のときなどに動坐して天皇を守護する役割を果たしている。
「記紀(古事記と日本書紀)」に語られる神話によれば、神器の八咫鏡は天照大神の御魂が宿ったものとされている。
天石屋戸に籠もった天照大神を呼び戻すための祭祀が営まれた際に作られたもので、理由や役割は伝承によってやや異なるが、天照大神の姿、すなわち太陽を模したのだともいう。
そして、天孫ニニギが神器を携えて地上(葦原中国)に降臨して以来、代々の天皇が自身の住まう御殿で祀っていたところ、10代・崇神天皇のとき、畏れ多いことを理由に別の場所で祀ることにした。(崇神天皇が天照に祟れたともされる)
託されたヤマトヒメ(倭姫命)は各地をめぐった後、次の11代・垂仁天皇の時に伊勢の地に定着し、これが現在の伊勢神宮だという。
ところが『日本書紀』では、以降の天皇即位の場面にも、鏡や剣の継承が語られていたりする。
このあたりの事情について『日本書紀』に説明はないが、古代の宮廷祭祀を担った忌部氏の手により807年に成立した『古語拾遺(こごしゅうい)』によるなら、崇神天皇が神鏡と神剣を手放す際、代わりに「護の御璽(まもりのみしるし)」を新たに作って手元に置いたとされている。
つまりこれが崇神天皇以降の天皇に奉られる神器だという。
なお、この伝承に依るなら、皇室の神器は本来のそれの模造品だといった散見する説明は誤りとなる。
神宮の八咫鏡について『日本書紀』に注目すべき記述がある。
天石窟神事の異伝(一書)のひとつに、天照大神が磐戸を少し開けたとき鏡を差し入れようとして、戸に触れて小さな傷が付き、「其の瑕(きず)、今に猶存(うせず)。此即ち伊勢(神宮)に崇秘(いつきまつ)る大神(八咫鏡)なり」(天照が持っていた鏡に傷がつき、その傷は今でも伊勢の鏡に残っている)と説明されている。
神話世界の物語が、確実に現世の歴史と繋がっていることを強調し、伊勢神宮の崇高さを強調しせている。
この内宮御正殿に奉安されている神鏡は、錦布にくるまれて黄金の御樋代(みひしろ)に収められ、それを檜の御代に、さらにそれを御船代(みふなしろ)という大きな箱に収めている。
明治天皇が黄金の御樋代を勅封されたので、以降は誰も神鏡を目にした者はいないらしい。つまり、明治天皇は神鏡を直接に見たのかも知れない。
また、かつては式年遷宮の際に容器もみな作り替えたため、遷宮の関係者など、傷の存在が知られることもあったのかもしれない。
皇居の神鏡は、先述のように平安以降は温明殿に祀られていた。
ただ平安期には数度の内裏火災が起こっている。
960年には遷都後初めての内裏火災があったが、神鏡は無事だった。
しかし、1005年の火災では藤原道長の『御堂関白記』などの記述から破損したと知られ(鏡の形をとどめない)、1040年のときには焼亡していくつかの粒と化して(ほとんど灰になってしまい)発見されるに至ったらしい。
火災によって破損した神鏡は皇居所有のものの話である。伊勢の神宮で祀られている、いわば本物の方は今でも厳重に管理されている。(とされている)
その後、壇ノ浦から無事に(灰のまま箱に収められているであろう)鏡が戻り、やがて南北朝の動乱が起こるが、両朝の合体によって以降は宮中にて静かに祀られている。
ただし神鏡を収めた唐櫃(からびつ)は、ふたつ存在している。
現在の宮中三殿の中央に位置する賢所では、内々陣の中央に「一ノ御座」、向かって右に「二ノ御座」があり、南北両朝が所持していた神鏡をそのまま祀ったために二座あるのだともいわれるが、確かなことはわからない。
ただ、960年の火災の際には温明殿の焼け跡から3枚の鏡が見つかり、うち1枚を八咫鏡と見なしたとされ、当初から複数の鏡があったことになる。
粒であろうと灰であろうと複数であろうと、実質的な初代天皇ではないかとも見なされる崇神天皇の、伝説的な事績が宮中の八咫鏡には寄せられている。伊勢神宮の八咫鏡と同様の「霊験奇異なり」(『本朝世紀』)と伝えられる神鏡である。
八咫鏡と八尺瓊勾玉が高天原という天上の神々の世界で作られたことに対し、草薙剣(天叢雲剣)は地上世界に由来する。
とはいえ由来に神秘性がないわけではなく、神話のなかにあるように、クシナダヒメ(奇稲田姫)を救うためにスサノオ(素戔鳴尊)が倒した八岐大蛇の尾から出て来たとされる。
神聖なはずの神剣が人を喰らう忌まわしい怪物の体内から出た、という話はよく考えると不思議なものである。
そこには日神(天照)と鏡(太陽)の関係と同じく、剣と蛇の形状が似ていることも関連しているのだろう。
古代の観念では、尋常ではない力を持った存在が神的な存在とされた。
『日本書紀』によれば「是神しき剣なり」と感じたスサノオは自分の物にするべきではないと判断して天上界へと献上し、『古事記』によれば天照大神に奉ったという。
天照大神の所有物となった神剣は、天孫降臨によって再び地上に戻ってくる。
そして、伊勢の神宮に奉仕する初代の斎宮・ヤマトヒメ(倭姫命)が各地の平定に勤しむ甥のヤマトタケル(日本武尊)に神剣を渡しているため、「記紀」ともに詳細は伝えられないが神鏡と同じく伊勢に遷されていたらしい。
ヤマトタケルは平定途上で尾張国のミヤズヒメ(宮簀媛)のもとに神剣を残し、これが熱田神宮に草薙剣が祀られる由来とされる。
「天叢雲剣」という名称は、『日本書紀』によるもので、これが元の名であるらしい。八岐大蛇の上に常に「雲気」があったことによる命名かと思われる。 のちにヤマトタケルが東国平定の途上、野原で火攻めに遭ったときに剣で草を薙いで逃れ、草薙剣の名で呼ばれるようになったという。
天智天皇の時代、熱田神宮の神剣は僧によって盗まれ、『日本書紀』によれば僧は新羅に逃げようとするが風雨のため戻ってきたという。
そしてわずか1年後、天武天皇に代替わりした直後、奇妙な事態に陥る。
天皇が病気となったので占うと、草薙剣の祟りと判明したため、すぐに熱田神宮に送ったという。
盗人から取り戻した神剣は、なぜすぐに熱田神宮に戻さず宮中に保管されたのか、そしてなぜ天皇を祟ったのか、『日本書紀』には特に何も記されていない。
本来は天皇のもとにあった神剣なのだから手元に置いた、ということだろうか。
しかし天皇の身辺には、崇神が用意したという「護の御璽」たる神剣も存在していたため、宮中に【神剣が2つ】も存在していたことになる。
日本神話を鑑みると、こういう時は大抵は祟られるものである。
宮中に伝わる草薙剣の分身は、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、二度と戻ることはなかった。
そのため、以降しばらくは「夜の御殿」安置の剣を代用としていたが、順徳天皇の即位に際し、伊勢の神宮から贈られた剣を二代目の「護の御璽」たる草薙剣にして現在に至る。
剣や鏡という物は、いわば神が宿る容れ物である。
なので本来の神器とは別の剣鏡を用意しても、そこに神が宿るとされたなら、同じ神器となる。本体は物ではなく神だからである。
したがって【新たに用意された剣】となっても、神器としての価値が失われることはない。
記紀神話においてもその用途、使用に関する記述がなかった【八尺瓊勾玉(八坂瓊曲玉)】
神器の中で八坂瓊曲玉はもっとも正体が掴めず、謎に満ちている。
高天原から神鏡や神剣とともに地上にもたらされたと伝えられながら、『日本書紀』の天皇即位の場面にはなぜか勾玉の継承だけは語られない。
崇神天皇のときに御殿から遠ざけられたとも伝わらないため、分身が作られたという話もない。
天孫降臨の場面では『古事記』に「八尺瓊勾玉」、『日本書紀』には「三種宝物」の一つに「八坂瓊曲玉」とあり、伝承の上では勾玉(曲玉)であることがわかる。
「記紀」では「璽(じ)」という語の使用に混乱があり、神器の実態をくもらせている。
古く『日本書紀』には、代替わりのたびに神器の継承が明記されているわけではなく、天皇璽符(みしるし)など漠然と「天皇のしるし」を意味する品の引き継ぎが数例見られる。
26代継体天皇の即位に際してようやく「天子(みかど)の鏡剣の璽符を上り(たてまつり)」とあり、続いて天皇が「璽符を受く」とあるので、【璽符】とは鏡剣の総称であろうと理解される。
8世紀の祭祀を規定した「神祇令(じんぎりょう)」にも天皇即位の時には「神璽(かみのしるし)の鏡剣を上れ」とあって、神聖なるしるしであるところの鏡と剣の継承が定められている。
したがってこの場合の「璽」は勾玉(曲玉)を指すのではない。
ところが八咫鏡は厳重に奉斎されて容易に動座できなくなったらしく、50代桓武天皇が崩御したとき、『日本後紀』には皇太子に「璽并(じなら)びに剣」が移ったと記される。
“璽と剣”と並称されるからには、この場合の“璽”は神聖な物の総称ではなく、勾玉(曲玉)を指すと思われる。
【璽】というのは本来、天子が用いる印章を意味する。したがって天皇印の御璽(ぎょじ)のような使用例が正しい。
しかし先に記したように、神器の鏡剣を「璽符」や「神璽」と表現し、やがて神器の勾玉を「璽」や「神璽」などと呼ぶようになる。
ゆえに現在の神器の継承儀礼は「剣璽等承継の儀」という。
(つまり、【璽】が指す意味が複数あるため、「など(等)」と入れる必要があるわけだ)
このような混乱はかつての天皇や貴族たちも不審に感じたらしい。
鎌倉時代末期の花園天皇の日記によれば、関白鷹司冬平が所有する書物に神璽の箱には印が入っていると書かれていたため、玉ではないのかと天皇が冬平に問うたところ、「霊物のため知らざる由」の返答だったという。
神社の御神体と同じで、尊い神のものを人が直接に目にするのは不敬とされる。
ゆえに神器はいずれも格別な理由や状況がない限り、興味本位で確認することはできないのである。
湾曲した勾玉(曲玉)ではなく、丸い玉という可能性もある。
『古事記』では「八尺の勾玉の五百津の御須麻流の珠」という表記もあり、この「珠」の字は真珠のような丸玉を意味する。
また信憑性は乏しいが、壇ノ浦の波間に浮かんでいた璽箱を回収して開けてみたところ、中は上下の二段に分かれ、それぞれに四つの玉が入っていたという記録もある。
1210年に即位した順徳天皇の『禁秘御抄(きんぴみしょう)』では天皇自身の感触として、璽箱の中で鏡一つほどの大きさのものが動いたという。
さらに、昭和天皇の侍従が璽箱を捧げ持ったときについ傾けてしまったところ、「玉の塊のようなものがコロリと転がる音がした」らしい(東京新聞、平成31年3月11日刊)。
八尺瓊勾玉(八坂瓊曲玉)の現物がいかなるものか、それは明らかになっていない。
しかし、被災して粒と化したという賢所の神鏡もそうだが、破損してしまったからといって、神器としての価値が失われるわけではない。
神器に護られる天皇は、宮中祭祀を通して国や民の安寧と発展を祈願し、一般庶民もまた伝承を背景に伊勢神宮や熱田神宮に参詣する。
結局は神器とは【器】でしかなく、その器の中に収められている物に価値があるのだ。