建武の新政は土地問題によって失敗した

土地を保証しなかった後醍醐

後醍醐天皇の建武の新政は失敗した。
失敗の要因はいろいろとあったが、一番の理由は「土地政策の失敗」であった。
武士も農民もともかく土地(農地)が財産であったのに、その土地を保証してくれる気配が後醍醐には全くなかった。
逆に多くの武士から支持を得た足利尊氏は武士たちに対して土地を保証していた。

後醍醐帝 笠置山皇居霊夢之図 国立国会図書館 所蔵

後醍醐帝 笠置山皇居霊夢之図 国立国会図書館 所蔵

雑訴決断所

土地を巡る訴訟が多かった

鎌倉時代には荘園の所有をめぐる訴訟が激増したが、建武の新政では問題解決の機関として雑訴決断所が置かれた。
「雑訴(ざっそ)」とは、中世における土地に関する訴訟制度の称である。
それまで訴訟沙汰を受け付けていた記録所は、重要な訴訟のみ扱う機関となった。

建武の新政の失敗

民衆の気持ちが分ってなかった後醍醐

土地問題に関して、後醍醐天皇は「土地の保障は綸旨(天皇が直接発給する文書)によって行う」と宣言した。(要するに、土地の事は全部オレが決めるから、という事である)
しかし、所領の取り戻しを求める人々が証文を携え、大挙して都に押しかけた。
雑訴決断所には膨大な数の土地問題が舞い込み、早々に組織の拡充を迫られた。
だがそれでも人手が足りず、土地問題の解決は停滞した。
建武の新政を揶揄した「二条河原の落書」でも「器用ノ堪否沙汰モナク、漏ルル人ナキ決断所(適格審査もなく誰でも入った決断所)」と皮肉られた。

武士層の反発を招く

後醍醐天皇は「朕が新儀は未来の先例たるべし(私の新しい政策は次代の先例になる)」と称し、意欲に満ちて新しい政治を始めた。
政策には後の室町幕府に引き継がれたものもあり、先見の明もあったが、当時の現実とはかけ離れたところもあった。
特に天皇が軍権まで握るのには無理があり、武士層の反発を招いて新政の瓦解を引き起こした。

後醍醐への北条氏の反乱が起こる

北条氏に多くの武士が付いてしまう

武士たちが盟主として仰いだのが、清和源氏の流れをくむ足利尊氏だった。
1335年(建武2年)、北条高時の遺児・北条時行が信濃で反乱を起こすと、新政に不満を抱く武士層が味方し、たちまち大勢力になった(中先代の乱)。
尊氏は時行討伐の許可征夷大将軍への任命を求めたが拒否され、やむなく独断で出兵し、時行軍を破った。
後醍醐への反乱を起こした北条時行の下に多くの武士が集ったのは、それだけ後醍醐に対する不満が溜まっていた証拠であった。

尊氏が武家の盟主として仰がれていた

武士団が求めていたのは土地だった

尊氏は軍功を挙げた武士たちに恩賞を与えようとするが、後醍醐天皇はこれを拒否。
やむなく独断で恩賞を給付したが、これが反逆行為とみなされ、天皇は尊氏討伐の軍を派遣する。
しかし、武士たちは恩賞の給与を大事にする尊氏を信用し、多くが尊氏方についた。
建武の新政は瓦解し、後醍醐天皇は吉野に去った。


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