天岩戸神話とは、日本神話(古事記&日本書紀)に描かれる物語。アマテラスが弟スサノオの狼藉に恐れをなし天岩戸に姿を隠してしまった。世界は暗闇に包まれたが、天照を支える神々によって天照は救出され、世界が光を取り戻した。という神話である。
のちの藤原氏(中臣氏)の氏神まで登場するこの物語は、政治的な脚色がなされた可能性がうかがえる。
「天岩戸」の表記に関しては史書によって違いがあり、「天戸(あめと、あまと)」、「天岩屋(あめのいわや)」、「天岩屋戸(あめのいはやと、あまのいわやと)」とも記される。また、「岩」は「磐」あるいは「石」とも記される。
天岩戸で活躍した神々の一覧。『古事記』での表記と、()内の神名は『日本書紀』の表記。
ここで活躍した神々は後々のヤマト政権に所縁のある神様が多く、これは、『記紀』が編纂される際に、政権中枢の豪族たちの意向が反映されたのかも知れない。
アマテラスは、アメノイハヤト(『古事記』天石屋戸、『日本書紀』天石窟戸)に籠り、天地が暗闇になる。『古事記』『日本書紀』ともに神々がアマテラスを呼び出し、スサノオが追放される展開で一致するが、微妙な違いがある。
天安河原に集まった八百万の神々は、タカミムスビ(高御産霊神)の子・オモイカネ(思金神)に考えさせた。
オモイカネが考えるには、常世の長鳴鳥を集めて鳴かし、天の金山の鉄を取って鏡を作らせ、アメノコヤ(天児屋命)とフトダマ(布刀玉命)に天香久山の真男鹿の肩骨抜かせて焼き占う。
天香久山の榊を根こそぎ取り、上の枝に八尺瓊勾玉を数多く貫いた玉飾りをかけ、中の枝に八咫鏡をかけ、下の枝に白い幣と青い幣をかける。
フトダマに御幣を取らせてアメノコヤに祝詞を読ませ、アメノタヂカラオ(天手力男命)を戸の脇に隠す。
そこに天香久山の日陰蔓と真析蔓をたすきにかけ、天香久山の小竹の葉を持ったアメノウズメ(天宇受売命)が戸の前に桶を伏して踏み鳴らし、上半身と下半身を露出させた。
すると神々はどっと笑った。
外の様子を怪訝に思ったアマテラスは、戸を少し開けてアメノウズメに問うと、アメノウズメは、「あなた様より尊い神が来られるので皆喜んでいます」と言い、アメノコヤとフトダマが鏡を差し出した。
いよいよ不思議に思ったアマテラスが鏡に映った姿を覗き見ると、脇からアメノタヂカラオがアマテラスを引っ張り出した。
フトダマが戸に注連縄を巻き、「これから内にお戻りになることは叶いません」と申し上げると、天も地も明るさを取り戻した。
神々はスサノオに多くの祓物を負わせ、髪と爪を切って高天原から追放した。
以上が『古事記』における天石屋戸神話である。
太陽神が隠れたことで世界が暗闇になり、その後再び明るさを取り戻すという構図は、古くから皆既日食が神話化した物語であるという指摘がされている。
また、スサノオの乱行に負けたアマテラスが一度死に、やがて復活する「死と再生」というパターンは、世界の神話のなかでは比較的よくあるパターンである。
恐らく、天照を支えた神々に関しては、人為的(政治的)に改変が成されていると思われる。
アメノウズメの子孫は、後に宮廷儀礼である鎮魂祭における神楽を司る猿女君氏となり、神話と同様に桶を踏む動作を行っている。
後に天石屋戸の神話は、神楽の起源譚として親しまれ、やがて岩戸神楽も作られていく。
次に『日本書紀』における「天石窟戸」をみてみる。
基本的な流れは同じであるが、『古事記』で長々と書かれた、オモイカネが発案した神々の役割は省略され、アメノコヤ(天児屋命)とフトダマ(太玉命)、アメノウズメ(天鈿女命)の三神に焦点が当てられる。
それぞれアメノコヤは中臣連遠祖、フトダマは忌部遠祖、アメノウズメは猿女君遠祖という、後の神祇官人の先祖神であることが明記される。
『古事記』では、アメノコヤが祝詞、フトダマは御幣取という役割分担されていたが、『日本書紀』では「相与致其祈祷」と共に祈祷し、中臣神、忌部神という表記もされる。
アメノウズメも神々の前で身体を露わにして乱舞するものではなく「顕神明之憑談(神霊が人に乗り移った神がかり)」という状態になる。
そこでアマテラスが「世界が暗闇になったのに、どうしてアメノウズメは楽しそうなのか」と問い、戸を開けたところ、タヂカラオ(手力男神)がアマテラスを引っ張り出し、中臣神と忌部神が磐戸に注連縄を巻き、中に帰らせないようにした。
やがてスサノオは追放される。
両書の違いを見ると、オモイカネが深慮をめぐらす点は同じだが、『古事記』がオモイカネをタカミムスビの子と書くことに対し、『日本書紀』にはそれがなく、活躍するのは中臣、忌部、猿女の神祇官に仕える氏族の始祖である。
『古事記』では、冒頭にアメノミナカヌシ(天御中主神)とタカミムスビ(高御産霊神)、カムムスビ(神御産霊神)が登場し(造化の三神)、物語の要所でムスビの神々が重要な役割を果たしている。
霊力を産み出すムスビの力が、『古事記』の世界観を形づくっていることが明らかにされており、アマテラスが隠れるという事態にムスビの神の子が活躍する展開を読み取ることができる。
対して『日本書紀』は、律令国家日本の起源神話である。
神々を祭祀する神祇官人たちの先祖神を活躍させる必要があったのだろう。
そもそも『記紀』の編纂には藤原氏も関わっており、自分達(藤原氏)にとって都合が良いように歴史を手を加えたと疑うべきである。