忌部氏(いんべうじ)は古代の宮廷祭祀・祭具製作・宮殿造営を司った氏族で、王権の祭祀に従事する「忌部」という部民を率いた。「忌」は神事で穢れを避け、身を慎むことを意味する。フトダマを始祖とし、天照の時代から天皇家に仕えた。のちに中臣氏(藤原氏)との政争に敗れたことで排斥され、「斎部」へと改称、斎部広成が『古語拾遺』を著した。
祖神のフトダマは、『日本書紀』では太玉命、『古事記』では布刀玉命、平安時代の神道史料である『古語拾遺』では天太玉命(あめのふとだまのみこと)としている。
また、『古語拾遺』と『新撰姓氏録』では、フトダマをタカミムスビ(2番目に生まれた神)の子としている。
フトダマは天岩戸隠れの際、岩戸に隠れたアマテラスを出すため、アメノコヤネ(中臣氏の祖神)と共に祭祀を仕切った神である。『記紀』ではアメノコヤネのほうが重要な役割を担っているが、忌部氏が編纂した『古語拾遺』では、フトダマのほうが活躍している。
地方にも王権に奉仕する「忌部」があり、統率する一族が忌部氏と称した。阿波、讃岐、紀伊、出雲などの地方忌部氏がよく知られる。これらの忌部氏は祖神が異なるので、必ずしも血族的につながっているわけではない。
『古語拾遺』では、忌部氏の祖であるフトダマが、地方忌部の祖神を率いたことになっている。
フトダマに従った5柱の神を「忌部五部神」といい、櫛明玉命(出雲忌部)、彦狭知命(紀伊忌部)、天日鷲命(阿波忌部)、手置帆負命(讃岐忌部)、天目一筒命(筑紫忌部・伊勢忌部)が、それぞれの忌部氏の祖神となったとされる。
中央氏族としての忌部氏の本拠地は、現在の奈良県橿原市忌部町周辺にあったとされる。橿原市曽我町の曽我遺跡では昭和57年(1982)から大規模な発掘調査が行われ、5世紀後半から6世紀前半にかけての玉類(勾玉、管玉、丸玉など)が出土した。忌部氏の氏神である天太玉命神社にも近いことから、忌部氏と関わりが深い場所だったことが推測される。
蘇我氏の本拠地にも近く、忌部氏と蘇我氏が密接につながっていた可能性も指摘されている。
忌部氏は地方忌部から物資を集めつつ、祭具の製作や宮殿の造営に関わった。古代社会では祭祀が最も重要なイベントだったので、それを全国規模で動かした忌部氏の力は相当だったとうかがえる。『延喜式』には「御殿御門などの祭には斎部(忌部)氏の祝詞を申せ。以外の諸の祭には、中臣氏の祝詞を申せ」とあり、忌部氏の祝詞は別格だったとみられる。
乙巳の変で忌部氏が親しかったとされる蘇我氏宗家が滅びると、次第に中臣氏が優位になっていく。8世紀に入ると中臣氏の流れを汲む藤原氏が興隆し、祭祀権を中臣氏が占めるようになった。伊勢神宮などへの奉幣使も、当初は中臣氏と忌部氏が平等に選任されていたが、やがて忌部氏は除外されていった。
こうした中で忌部氏は「斎部」と氏名を改め、大同2年(807)には、一族の長老である斎部広成が『古語拾遺』を著した。斎部氏の祭祀における伝統と中臣氏批判を論じた書で、祭祀研究の貴重な史料となっている。