スサノオの功績

「消された」スサノオの功績

事績は消され乱暴者とされた男神

スサノオと蘇我氏はたがいに渡来系に近い

皇祖神アマテラスの弟であるスサノオは、乱暴なだけではなくちゃんとした多くの功績もあった。
【十拳の剣】という鉄剣(製鉄技術)を天界から地上に持ち込み、【五穀・農産物の種子】をももたらした(とされる)のはスサノオである。
この神話を見れば、スサノオはヤマト建国の立役者だったともいえるのだが、その事績はなぜ功績として扱われないのか。
注目されるのは蘇我氏との密接な関係である。

目次

日本と朝鮮を往来した製鉄の神

スサノオ神話の舞台・出雲は砂鉄の産地

スサノオの神格は多岐にわたるが、注目されるのが「鉄の神」という側面である。
『出雲国風土記』のスサノオ神話の舞台は飯石郡と大原郡(現在の出雲市、雲南市)で、2郡は砂鉄の産出地として知られ、出雲地方最古の製鉄遺跡・羽森遺跡(6世紀から中世までの遺跡)が存在する。
隣接する仁多郡(奥出雲町)もたたら製鉄のメッカとして有名だ。
そのため、スサノオは出雲の製鉄集団が信仰していた神とも考えられている。

古代日本は砂鉄を朝鮮半島に頼っていた

倭国の鉄生産は、弥生時代は原料を朝鮮南部の加羅(伽耶)諸国に頼っていた。主要交易地が北部九州だ。
>>鉄と剣の神話と古代史 >>弥生時代の日本と朝鮮 >>古墳時代の日本と朝鮮

【玉と鉄】の産地、タニハの丹後

また、タニハ、特に丹後(京都府北部)は「丹後王国」の異名もあるほど繁栄した地域で、「玉と鉄」がその力の源泉とされる。事実、弥生時代の鉄製品の出土量は北部九州に次いで多い。注目は弥生中期の玉作り工房跡の奈具岡遺跡(京丹後市)だ。ここでは大量の鉄製工具が発見されており、北部九州より先に丹後へ鉄加工技術が伝来し、専門の技術者集団が存在した可能性を示唆している。

タニハと出雲の対立

なお、タニハと出雲の対立は、弥生時代後期の出雲特有の墓制である四隅突出型墳丘墓(方形の墳丘の四隅を突出させた墓)の分布状況から推察されている。
山陰から北陸にかけて分布する四隅突出型墳丘墓だが、出雲と北陸の間に位置するタニハには一基もない。タニハの首長たちは北部九州に頼らずに独自の直接交易で栄えていたがゆえに、北部九州・出雲と敵対していた構図が浮かび上がる。

スサノオは渡来人だった?

スサノオ伝説は渡来人の伝承がもとになった?

歴史家の関裕二氏は、スサノオのモデルとなった人物を出雲ではなくタニハ出身で、タニハと深い関係を持つ人物であったと捉えている。
【アメノヒボコ(新羅からの渡来神or渡来人)】がその人物であったという可能性も含め、スサノオ神格のモデルは必ずしも一人とは限らないが、日本海・瀬戸内海を股にかけた海の民、タニハと朝鮮半島との交易に活躍した人物がスサノオ伝承の核になったという。

鉄剣や五穀の種子を地上に持ち込んだスサノオ

スサノオを【大陸から倭国へ鉄・先進文物を伝えた人物】と比定すれば、まさに倭国の土台を築いた偉人であり、規格外れの力を持つ根の国の王にも通じる存在となる。
ではなぜ『日本書紀』はそんなスサノオを悪神と扱うのだろうか。一つのヒントが、『日本書紀』で大悪役とされる蘇我氏の存在であるという。

スサノオのように貶められた【蘇我氏】

極めて【悪】として歴史に記された蘇我氏

蘇我馬子蝦夷入鹿の3代は飛鳥時代大王(天皇)家をないがしろにして専横を極め、上宮王家(聖徳太子の血族)を根絶やしにして王位簒奪しようとした末、乙巳の変(645年)で入鹿が暗殺されたことを機に滅亡した(実際には本宗家のみ滅亡)

近年では歴史の見直しがはかられている

近年になって蘇我氏に関する歴史の見直し(史料批判)が進み、律令制への地ならしをした功績や開明性にスポットが当たっている。上宮王家の滅亡も主犯は蘇我氏ではないという見方もあり、悪役扱いは後世の意図的なものである可能性が強まっている。

スサノオと蘇我氏に残るつながり

スサノオと蘇我氏のかかわりを示すものもある。

正確な出自はわからない蘇我氏だが、渡来系説あり

蘇我氏の祖は、6世紀前半の宣化朝で大臣となった蘇我稲目だが、それ以前は不詳だ。神功皇后伝承に現れる武内宿禰を祖とする説、奈良県葛城市を本拠とした葛城氏系統とする説、渡来系とする説などがある。

スサノオ所縁の神社に「蘇我」の文字あり

クシナダヒメとの宮を営んだとされる須賀の須我神社は、スサノオ夫婦のほか、清之湯山主三名狭漏彦八島野命(オオナムヂ・オオクニヌシの別名とも)という神が祀られている。この神は但馬国一の宮の粟鹿神社の書物では「蘇我能由夜麻奴斯禰那佐牟留比古夜斯麻斯奴(そがのゆやまぬしみなさむるひこやしましぬ)」と表記されている。

スサノオを祀る素鵞社は「そがのやしろ」と読む

出雲大社でスサノオを祀る 素鵞社が「そがのやしろ」と読まれている。

スサノオと蘇我入鹿が同一視されることも

日本書紀』には斉明天皇が崩御(661年)したとき「大笠を着た鬼が現れ、葬儀の様子を見守ってい た」という蓑笠姿のスサノオを彷彿とさせる記事がある。 平安時代後期の史書『扶桑略記(ふそうりゃくき)』はこの鬼を蘇我入鹿の霊とし、37代斉明天皇は祟られて亡くなったとしている。

『日本書紀』には、乙巳の変で功があった中臣鎌足が死ぬ直前に、鎌足の屋敷に落雷があったとする記事(669年)もある。古来、落雷は祟りの象徴であり、入鹿の崇りを示す記事とも受け取れる。

なぜ歴代法皇は熊野(スサノオ)を参拝したのか

仮にスサノオを蘇我氏の祖とすれば、『日本書紀』が笠をかぶった鬼、悪神としたことには辻褄が合う。歴代法皇の熊野詣は、スサノオと蘇我氏の怨霊を恐れたがゆえの参拝だったとの見方もある。


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