蘇我稲目

蘇我稲目

蘇我本宗家の始祖

蘇我稲目は蘇我本宗家の始祖、稲目は多くの支族と渡来系豪族を従えてヤマト政権の財務を握り、大伴氏・物部氏と肩を並べた豪族。
蘇我馬子の父、蘇我蝦夷の祖父、蘇我入鹿の曾祖父、娘3人を天皇に嫁がせ后とし権力を強めた。
仏教を受容し蘇我氏を隆盛へと導いた。

8代・孝元天皇の子孫

蘇我氏は8代・孝元天皇の子孫である武内宿禰を祖とする。
(これらの経歴が事実か否かは別として…)武内宿禰→蘇我石川宿禰→蘇我満智→蘇我韓子→蘇我高麗→稲目と系図が続き、高麗の子の稲目から歴史書における蘇我氏の事績が濃くなっていく。

稲目以降の蘇我氏

蘇我氏は大伴氏が勢力を失った後に物部氏とともに政権を掌握する。
稲目の子の馬子は仏教受容を巡って物部氏とも対立物部氏に勝利した蘇我氏は天皇にすら及ぶ程の権力を得る。
しかし、645年の乙巳の変によって蘇我蝦夷と入鹿の父子が中大兄皇子らによって討たれ、蘇我本宗家は滅亡した。

蘇我氏が台頭した背景

三蔵の管理
『古語拾遺』によれば、雄略天皇の時代に蘇我満智が三蔵の管理を任されていたという。
※三蔵とは、祭祀のための財を納めた「斎蔵」、宮廷生活に必要な財を納めた「内蔵」、政治のための財を納めた「大蔵」の三つの蔵のこと
平群氏の没落
五世紀後半にヤマト政権で要職を占めていた平群氏だが、武烈天皇に討たれて没落した。
葛城氏の没落
蘇我氏が台頭するまでは最も有力な豪族だったが、雄略天皇に討たれて没落した。

稲目の時代に蘇我氏が台頭

宣化天皇の時代に「大臣」に

『日本書紀』には、6世紀前半の宣化天皇の時代に大伴金村と物部麁鹿火が大連、そして稲目が大臣に任じられたと記されている。
蘇我氏は稲目よりも前の時代からヤマト政権の財政を担当しており、稲目の代になってここまでの地位に昇り詰めた。

ヤマト政権の財政面を預かっていた

平安時代に記された神道史料『古語拾遺』には、蘇我満智が三蔵(斎蔵、内蔵、大蔵)の管理を任されていたとある。
この記述も史実かは確認が取れないが、蘇我氏が古くからヤマト政権の財政に携わっていた事が窺える。

渡来系氏族の力を借りた蘇我氏

蘇我氏の勢力が拡大した背景には、東漢氏秦氏といった渡来系氏族の力もあった。

製鉄・軍事に秀でていた東漢氏

東漢氏は15代・応神天皇の時代に渡来したとされる渡来系氏族出、大陸の進んだ製鉄技術を日本に伝えた
東漢氏は軍事も得意としていて、宮廷の警備や兵器の製作も担っていた。

インフラや産業に秀でていた秦氏

秦氏は水田の開発や養蚕などの殖産興業によって繁栄し、各地の発展に寄与していた。

葛城氏が没落

蘇我氏は渡来人の力を借りながら財政面で活躍したが、5世紀までは軍事力を有する氏族の方が重要視されていた。
代表的なのが葛城氏で、最盛期には大王に匹敵する権勢を誇っていたが、5世紀後半に雄略天皇の不興を買って討伐され、没落していく。

平群氏も没落

軍事氏族として活躍していた平群氏も、大王を差し置いて国政を牛耳っていたが、武烈天皇の命を受けた大伴金村によって滅ぼされた。
こうした有力豪族の没落も、蘇我氏が台頭する一因となった。

稲目が大臣に

宣化元年(536)、稲目は大臣に任じられる
大臣は武内宿禰の末裔(蘇我氏、葛城氏、平群氏など)が継いだ役職で、主に経済や外交を担当していた。

ヤマトの勢力拡大を稲目が支えた

同年、稲目は宣化天皇の命で尾張の屯倉の籾を都へ運ぶ任務を果たしている。
屯倉はヤマト政権の直轄地で、耕作地だけでなく政治軍事における拠点でもあった。
ヤマト政権はこの屯倉を増やす事で支配地域を広げていき、稲目も屯倉の拡大に貢献、政権内で躍進していった。

蘇我が直轄領まで所有し、航路を整備

『日本書紀』には、稲目が吉備の児島(児島半島)などに白猪屯倉と呼ばれる広大な直轄領を置いた事が記されている。
さらに難波から児島、北九州の那の津に至る航路が整えられたが、これも稲目の主導で行われたとされている。

大伴金村の失脚でさらに躍進

欽明天皇の時代になると、大伴金村が外交政策の失敗を糾弾されて失脚、稲目と物部尾輿が欽明政権を支えるようになる。

天皇に二人の娘を嫁がせる

天皇の外戚にまでなった稲目

稲目は早くから欽明天皇に近づき、2人の娘(堅塩媛、小姉君)を妃として嫁がせた
こうした婚姻政策が行われたのは、欽明がまだ若く、大王としての権威に欠けていたからだと思われる。
蘇我氏は、かつて大勢力を誇った葛城氏の後継を自称していたが、葛城氏の血脈を受け継ぐ稲目の娘を後宮に迎える事で、大王としての権威を高めようとしていたのだろう。

崇仏論争の勃発

崇仏派と廃仏派の対立

仏教の受け入れを巡って蘇我氏と物部氏が対立、争いは稲目の子の馬子の代まで引き継がれる事となる。
>> 仏教伝来と崇仏論争

仏教を受け入れようとする蘇我

蘇我氏は渡来人の知識や技術を取り入れ躍進を果たしたが、仏教に対してもいち早く取り入れている。
仏教公伝に関しては諸説あるのだが、稲目は仏教の受け入れに悩む欽明に対して、やはり仏教を受け入れるように進言したとされる。
ただし、蘇我氏も神事を軽視していたわけではなく、忌部氏と結んで祭祀を行っていた。

受け入れまいとする物部

物部尾輿や中臣鎌子らは、異国の神(仏教)を受け入れれば既存の神々の怒りを招くといい、仏教の受容に反対した。
中臣氏も物部氏も代々、既存の神々に携わる家柄であったため、仏教を受け入れるわけにはいかなかったのだ。
※近年では物部氏の居住跡から氏寺の遺構が見付かっており、私的には仏教を信仰していた可能性が見付かった

一旦は廃仏となる

その時期、疫病が流行っており、多くの人々が亡くなっていた。
これを廃仏派は「仏像を敬い、国神を怒らせたからだ」と欽明に進言、欽明もこれを聞き入れ、仏像の廃棄や寺の焼却を命じた。
物部尾輿らは仏像を難波の堀江に棄て、伽藍を焼き払ったという。
こうして日本における仏教の不況は一歩後退する事となった。

稲目、死去

論争の勃発後も稲目は大臣として政務に従事し、欽明31年(570)に亡くなった。
享年は不明だが、30年以上も大臣の職に就いていた事から、かなり老齢であったと思われる。
そして、崇仏論争は馬子の代にも受け継がれていく事となる。

稲目の年表(日本書紀より)

6世紀初頭 ヤマト政権において大伴氏・物部氏、蘇我氏の3豪族が影響力を振るう
527年(継体21年) 磐井の乱が勃発。これを契機にヤマト政権は地方豪族の監視を強化するため、朝廷直轄地「屯倉」の増加を決定。これの取締を稲目が務める。
536年(宣化元年) 「大臣」に就任
540年(欽明元年) 欽明天皇が即位、稲目はそのまま大臣に就任、稲目は二人の娘(堅塩媛、小姉君)を欽明の后とした。※堅塩媛の子が後の用明天皇と推古天皇、小姉君の子が後の崇峻天皇
551年(欽明12年) 蘇我馬子が生まれる
552年(欽明13年) 百済より仏教請来(仏教公伝)、稲目は仏教の受容を主張、仏像を小墾田家に安置し、向原家を寺とした。※仏教公伝は538年説もある
555年(欽明16年) 吉備の白猪屯倉の経営責任者となる
570年(欽明31年) 稲目死去

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