縄文〜弥生時代と日本は朝鮮半島との交易を行い続けていたが、古墳時代になると日本(当時は倭国)から朝鮮半島に対し政治的・軍事的な干渉を行うようになる。
それまでも邪馬台国などの政治勢力を介さず個人で大陸に渡った人はいたであろうが、王権という政治勢力の意図による大陸進出はこの時期より始まった。
ヤマト王権は百済と同盟を組み、高句麗と戦う為に海を越え大陸に進出する。さらに、鉄・鉄原料などの日本列島に不足した資源も求めての干渉であった。
倭王武(雄略大王)が南朝宋の皇帝に送った上表文に、「昔より祖禰自ら甲冑を貫き、山川を跋渉して寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らぐること九十五国」とある。
もちろん誇張はあるにせよ、倭王武は自らの祖先にあたる大王たちが東国、西国、そして朝鮮半島へ渡って多くの国を征服したと記している。
また「記紀」には神功皇后が住吉三神の神託に従って外征し、「三韓」(高句麗・百済・新羅)を従えたとの記述がある。
また『日本書紀』には倭国が「任那日本府」とよばれる植民地を所有していたかのような記述がある。
しかしこれら「記紀」の記述には疑わしいところがあり、そのままには受け取れない。
奈良県天理市にある石上神宮には、七枝刀(しちしとう)という銘文の彫られた刀があり、そこには泰和4年(369年)に「百済王の世子(せいし:後継者である皇子)が倭王旨のためにこの優れた刀を贈る」といった内容が記されている。
ただこれが百済王の世子から倭王に「献上」されたのか、「下賜」されたのか、それとも対等な関係で贈られたのか、表現が曖昧なこともあって諸説があり、定まっていない。
この七枝刀については、『日本書紀』にも記載があるが、この刀が百済側から倭王側へ、ある政治的意図をもって贈られたものであることは間違いない。(日本書記は中国など外国が読むことを想定して編纂されたため、七枝刀のことを海外に報せる意図があったということ)
これ以後(あるいはこの前後から)、倭国から朝鮮半島への働きかけが積極化していく。
近年では、367年に百済と倭国との間に軍事同盟ともいうべき関係が成立したという見方がある。
南下する高句麗からの攻撃に苦しみ、倭国の軍事援助を必要としていた百済と、百済から鉄や大陸の先進文物の入手を期待した倭との間に利害が一致した。そして、七枝刀はこの同盟が結ばれた記念に贈られた、という説だ。(塚口義信氏)
現在、中国領にある高句麗広開土王(好太王)碑も、謎の多い4世紀の倭国における国際関係を知る一つの史料となる。
もともと字が欠けて判読しにくい部分がある上に解読の難しい部分も多い史料であるが、414年に建立された高さ6.4mの大石碑に刻まれた貴重な銘文である。
そこにはこの王の業績、戦績が高らかに語られている。この内容も額面通りには受け取れないが、ここでは倭は高句麗とたびたび戦った、手ごわい敵対勢力として描かれている。
4世紀末(300年代末)という時期は、日本列島に大量の渡来人が移住してきた時期ともみられており、この時期は列島内でも内乱が勃発した可能性が指摘されていて、この内乱の背景に王権内の外交方針の違いがあったのではないかとの説もある。(塚口義信氏)
「記紀」の大王(天皇)でいえば応神大王の時代のころから、ヤマト王権の大陸への関わりが活発化し出している。
こうした倭国と朝鮮半島の動向は地方豪族にも無縁ではなかった。
『日本書紀』などには地方豪族が大王の命を受けて伽耶や百済へ渡ったことを伝える伝承が多いが、古墳時代中期の古墳の副葬品から、海外に渡航した経験のある人物を埋葬したのではないかとみられる古墳が増加する。
朝鮮半島で製作されたとみられる金銅製の冠や装飾品、鉄剣などが、群馬県や福井県、熊本県などの古墳から発見されている。
実際には、大王の命によって使者として渡った者ばかりでなく、自らの意思で彼の地の優れた文物と資源を求めて渡海し、帰国した者も多かったのではないだろうか。
5〜6世紀における豪族たちのあいだには、現在考えられている以上に、国際的な交流が行われていたものとみられるのである。