スサノオとヤマト建国

スサノオ神話に隠されたヤマト建国

スサノオは皇室(古代天皇家)に尊崇される神でもあった。それはスサノオが「ヤマト建国」の立役者だった可能性を想わせる。スサノオとは実在の人物がモデルだったのか、それとも完全に空想の産物だったのか。

目次

古事記と日本書紀とで違うスサノオ像

『日本書紀』の方が政治的な脚色が目立つ

古事記』と『日本書紀』においてスサノオ像が違う理由はハッキリとはわかっていない。
勝者側(ヤマト政権)の記録で正史でもある『日本書紀』がスサノオ&オオクニヌシを意図的におとしめ、野史(正史ではない)である『古事記』の方がより実像を伝えていると捉える事が多いが、そうだという証拠もない。

もっと違う『出雲国風土記』のスサノオ

スサノオの名の由来は「荒ぶ神」か「須佐の神」か

高天原やヤマタノオロチ神話すら記述されず

天平5年(733)に成立した地方の史書『出雲国風土記』にもスサノオの伝承がある。同書でのスサノオは素朴で平和で、ローカルな神にすぎず、高天原やヤマタノオロチ神話は一切登場しない。
スサノオは須佐郷(すさごう:島根県佐田町)に鎮座したとされ、神名の由来は「須佐の男神(すさのおのかみ)」が根拠となっている。

8柱の子神とスサノオの神話を一本化した?

ただ、スサノオの八柱の御子神(子供のこと)の伝承もあり、御子神の中には武神的な神もいるため、『古事記』『日本書紀』ではこれらをスサノオという一つの神格にまとめた可能性も指摘される。
『出雲国風土記』は、もともと『古事記』『日本書紀』を参照した書であり、実像は『古事記』『日本書紀』のほうが近いという説もある。

出雲にとってスサノオは渡来系の外来神

神名は「荒ぶ神(すさぶかみ)」が由来であり、出雲にとっては他国から来た外来神の位置づけとなる。

歴代天皇たちが尊崇したスサノオ

天照を祀る伊勢神宮は参拝しなかった歴代天皇

『古事記』『日本書紀』が成立した持統天皇から、明治天皇に至るまで、歴代天皇皇祖神アマテラスを祀る伊勢神宮に参拝しなかったことは大きな謎とされる。(一説には、歴代天皇たちがアマテラスに近づきすぎる事で祟りを恐れた、という見方もある)

スサノオを祀る(諸説あり)熊野三山は参拝していた

一方、平安時代前期の宇多法皇以来、皇室がこぞって参拝していたのは、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)だ。歴代法皇らの熊野御幸は百余度に及ぶ。本宮大社の主祭神・家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)とはスサノオの可能性が高く、皇室に尊崇される存在だったことになる。

ヤマト建国について

謎だらけの初期ヤマト政権

纏向で発祥したとみられるヤマト政権

ここで、すべての始まりである「ヤマト建国」とスサノオの関わりが注目される。
歴史をひもとけば、3世紀初頭前後に、三輪山西麓の纒向(奈良県桜井市)に巨大集落が出現し、3世紀中〜後半に史上初の前方後円墳・箸墓古墳が築かれている。
現在では纒向遺跡と呼ばれるこの地に、8世紀初頭に成立する律令国家・日本へつながる政治体制、ヤマト政権(ヤマト王権)が誕生した。

畿内・北部九州・吉備・出雲などがおもな勢力

ヤマト建国前夜の列島各地には、畿内(唐古・鍵遺跡など)、北部九州(吉野ヶ里遺跡など)、吉備(楯築遺跡など)、出雲(西谷墳墓群など)、東海(朝日遺跡など)、越(北陸。八日市地方遺跡など)、タニハ(丹後・但馬・丹波の総称。赤坂今井墳墓など)などといった勢力があった。 独自の墓制を採っていた各地域でヤマトに倣った前方後円墳が築かれ、全国政権としてのヤマト政権が確立するのが古墳時代である。

初期ヤマトは【豪族による連合政権】だった

初期ヤマト政権は、各地の有力勢力による連合政権だった可能性が高い。 纒向遺跡からは東海を筆頭に、吉備、出雲、北陸などの他地域から運ばれた土器(外来系土器)が大量に出土している。ヤマトの土で造られた外来系土器もあり、纒向には各国からの移住者や、各国大使館のような機関があったことをうかがわせる。

北部九州と初期ヤマト政権は疎遠だった?

一方、当時の最先端地域だった北部九州の土器はほとんどない。
ヤマト・北部九州との対立関係を匂わせるものだが、これを示す史料は乏しい。こじ付けと思われるかも知れないが、ヤマトタケルの時代にはヤマト政権と九州(クマソ)は対立していたと「記紀」には在り、やはり、古代九州と初期ヤマト政権は不穏な関係だったのではないだろうか。

但馬のアメノヒボコがスサノオ?

歴史作家の関裕二氏は『播磨国風土記』に記される出雲神アシハラノシコオ(オオナムヂの別名:オオクニヌシのこと)と渡来人アメノヒボコの瀬戸内海での戦いに着目する。

新羅王子アメノヒボコが製鉄技術を伝えたという

ヒボコは新羅王子とされ、その戦いでタニハ(但馬)の出石(兵庫県豊岡市)を得たという。ヒボコはこの地に製鉄技術を伝えたという伝承もある。

【ヤマト・タニハ連合】VS【出雲・北部九州】の戦い?

ヤマト建国前夜、北部九州は出雲と関係を持ち、タニハは出雲と対立していたが、大陸との直接交流で鉄資源を確保し、富み栄えた地域とされる。つまりヒボコと出雲の戦闘は、「ヤマト・タニハ連合」と「出雲・北部九州連合」の戦いが反映された記事とも捉えられる。

製鉄と海上交通の要衝・淡路島

淡路島の勢力は出雲と関わり深かった

播磨対岸の淡路島は、西国の大動脈・瀬戸内海を押さえるうえで重要な場所であり、五斗長垣内遺跡をはじめとする鉄器工房跡が見つかっている。淡路勢力は、出雲の荒神谷6号銅鐸と同じ鋳型から作られた兄弟銅(松帆銅鐸)が見つかったことから、出雲との関係が示唆される。

神話における最初の島、淡路島と五斗長垣内遺跡

12棟もの近畿最大の鉄器生産工房跡が見つかった五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡は淡路島にある。淡路島は、イザナキ・イザナミ最初の国土や神々を生み出した神話の舞台としても知られ、弥生時代から鉄器の製作・保有の拠点として栄え、ヤマト政権の勢力拡大を支えたとみられている。

アメノヒボコが淡路島と制海権を手中に収める

出雲・北部九州連合に勝利したヒボコは、この淡路島と制海権を手に入れ、鉄器不足に苦しむヤマトの大恩人になった可能性がある。

アメノヒボコとスサノオの類似性

その後、出雲勢力もヤマト政権に参画し、北部九州は孤立、衰退することになる。
出雲の外来神であるスサノオと新羅のかかわり、オオナムヂ(オオクニヌシ)を娘婿にした神話などを考えれば、ヒボコ=スサノオという可能性も出てくる。


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