前方後方墳は東日本に集中する独特の形状の古墳。中国・四国地方(出雲地方)にも多く存在し、各地の王国の首長を埋葬したとされる。約500基の前方後方墳が日本列島に築造されたが、100メートルを超える前方後方墳は、大和に5基、下野に2基、上野・越中・美濃・駿河に1基ある。
前方後方墳はもともとは東日本を象徴する首長墓(王墓)であった。
しかし、古墳時代の中期以降、ヤマト王権が東日本に進出したことより、東日本にも前方後円墳が多く造られることになる。
そして前方後方墳は、それまでの【東日本におけるスタンダードな首長墓】という立ち位置から【特殊な形状を持つ少数派の墳墓】というポジションとなった。
前方後方墳は東海・関東地方に多く存在し、中国・四国地方にも分布する。
だがその数は少なく、約500基しかない。
日本全国に古墳がおよそ15〜16万基ほど存在し、その9割が円墳とされ、前方後円墳は5000基ほどであり、前方後方墳の少なさが分かってもらえるだろう(全体の約0.3%)。
方形と長方形(台形)の盛り土をつなぎ合わせた形状の古墳で、前方部の平面で祭礼を執り行い、後方部に埋葬部があった。
墳形以外の点では前方後円墳と共通するところが多く、何らかの関連性も指摘されている。
前方後方墳の原形は、方形周溝で囲んだ方形周溝墓とされている。
墓を囲む周溝の一部が途切れて陸橋になり、墳丘と外部がつながった「前方後方型周溝墓」になった。
これが前方後方墳の祖形で、伊勢湾の沿岸部で多く確認されている。
そのため、この辺りで独自に発生し、濃尾平野から東日本に拡散したという説もある。
一方で、山陰地方では四角い墳丘の四隅が突出した四隅突出型墳丘墓が方墳になり、前方部ができて前方後方墳になったといわれる。
また、近畿地方では前方後円墳から派生して前方後方墳になったものもある。
前方後方墳といえば東日本のイメージがあるが、100メートル超級の前方後方墳が最も多いのは大和(5基)である。
他は下野に2基、上野・越中・美濃・駿河に1基ずつある。
最大の前方後方墳である西山古墳(奈良県天理市)は全長183メートルで、4世紀の築造と推定される。
下段が前方後方形、中段から上が前方後円形という珍しい形状で、後方部からは鉄剣や管玉、銅鏡片などが出土している。
前方後方墳の祖形である前方後方形墳丘墓は弥生時代後期末から造られ始め、古墳時代の初めに多く築かれた。
しかし、ヤマト王権の影響が東日本にも及び、前方後方墳の代わりに前方後円墳が築造されるようになった。
5世紀後半以降は造られなくなったが、出雲地方では全長92メートルの山代二子塚古墳(島根県松江市)など、6世紀に入っても前方後方墳が築かれていた。
出雲は『古事記』でも地方とは別格の扱いをされており、古墳からもその別格ぶりがうかがえる。
都出比呂志氏(1942-1989年:日本の考古学者)が提示した「前方後円墳体制」では、前方後方墳は2番目にランクされている。
ヤマト王権の直接の支配下に入らず、独自の勢力を有していた豪族の古墳に多いとされている。
200メートル級の古墳がないこともあり、前方後方墳は「前方後円墳よりも下のランク」と考えられていた。
「前方後円墳体制」では「前方後円墳より下で、円墳や方墳よりも上」という立ち位置だったが、近年、前方後円墳が広まっていくよりも早く、前方後方墳が伝播していたという説がでてきた。
研究者の植田文雄氏は「前方後方墳は纒向遺跡誕生の頃に近江で出現し、前方後円墳よりも先に全国へ伝播した」という説を唱えている。
前方後方墳出現地の近くにある伊勢遺跡(滋賀県守山市・栗東市)には、弥生時代後期の国内最大級の大型建物群が発見されている。
東国と畿内の結節点にある近江は、双方に大きな役割を果たした地域だったと考えられる。
最古の前方後円墳とされる箸墓古墳の推定築造年代は3世紀中頃〜4世紀内だが、静岡県沼津市にある前方後方墳の高尾山古墳は「西暦230年頃の築造、250年頃の埋葬」と推定され
ている。
全長は約62メートルで、古墳時代初期の東日本で60メートルを超える古墳は、他には長野県松本市の弘法山古墳しかない。
日本考古学協会は、高尾山古墳を「日本列島における初期国家形成過程の画期である、古墳文化形成を解明するうえで重要な存在」と評価している。
一時は道路建設による取り壊しが決定したが、保存の声が高まり撤回された。
今後は古墳の史跡指定を目指し、整備を進める予定だという。
高尾山古墳では、墳丘上から彫り込んだ墓杭の中に木棺を直接納める「木棺直葬」が行われたとみられる。
発掘調査ではさまざまな外来系土器が出土したが、近畿地方の土器は発見されていない。
そのため、まだこの地域と近畿地方とではそれほど交流が盛んではなかったと思われる。
また、この高尾山古墳を有していたであろう勢力と、畿内とが対立していた、という論説もある。
『魏志倭人伝』で邪馬台国のライバルとして登場する狗奴国の系譜と見ているわけだ。
現実的には、高尾山古墳と狗奴国とは(地理的に)無関係であったと思われるが、ロマンのある話だ。