古代九州(筑紫)

古代九州 筑紫の国々

古代日本における海外との外交拠点となった北部九州は、多くの遺跡が発見され邪馬台国の有力地とされる。
邪馬台国が九州であれ畿内であれ、古代、九州に独自の文化圏(ムラやクニ)が存在した事は間違いない。
発掘によって見つかった遺構や、記紀における記述から古代九州・筑紫を見てみる。

北部九州に弥生の遺跡が集中

筑紫とは九州全域を指した

筑紫国はおおよそ現在の福岡県にあたるが、『古事記』で黄泉国から帰還したイザナギが禊を行う際に「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」といった用例があるように、古くは「筑紫」は九州全域を指す言葉だったようだ。
『古事記』では筑紫島は大きく筑紫(北九州)、豊国(大分県一帯)、肥国(佐賀、長崎、熊本の一帯)、熊曽国(肥国の南、薩摩辺り)の4つの国に分けられている。
北九州は邪馬台国所在地の最有力候補の一つだが、仮に邪馬台国が九州になかったとしても、日本の歴史上、特に古代史上における北九州の重要性は言うまでもない。

銅鏡や青銅器、勾玉が多く遺る

福岡県春日市の須玖岡本遺跡は奴国の中心地と考えられ、甕棺墓には前漢時代の銅鏡30面や青銅器、ガラスの勾玉などが副葬されていた。
ここからわずか20キロほど西には伊都国王墓に否定される三雲南小路遺跡があり、更に2キロと隔てずに同じく伊都国王墓、それも女王の墓である事が濃厚な平原遺跡がある。
平原から今度は南に40キロほど下ると、吉野ケ里遺跡の大集落がある。
第一級の重要遺跡がこれだけ密集してみられる場所は、日本中を探してもそうそうないのである。

佐賀・吉野ケ里遺跡

700年続いた巨大集落

吉野ケ里遺跡は、昭和の前期から一部では「幻の大遺跡」として重要性が指摘されていたが、殆ど注目される事なく忘れられた状態にあった。
1986年に本格的な調査を始めてみると、縄文時代から弥生時代後期まで約700年間にわたり栄えた巨大集落だった事が分かったのだ。
青銅製の武器や勾玉に加え、「宮室、楼観、城柵を厳かに設け」という卑弥呼の宮殿をそのまま再現したかのような巨大な祭殿や物見櫓、城柵に環濠などの遺構が発見されたのだ。

卑弥呼の都である可能性は低い

ただし、吉野ケ里遺跡の最盛期は邪馬台国よりも1世紀ほど早いとみられ、卑弥呼の都だった可能性は低いようだ。
遺跡の総面積は60ヘクタール近くになり、弥生式の巨大な環濠集落遺跡としても、縄文から弥生のムラ、ムラからクニへという発展を確認できる遺跡としても貴重なのである。
筑紫が「王国」として最も輝きを放つのは、弥生時代よりも6世紀、筑紫磐井が登場した時代になるだろう。

古代日本最大の内乱

磐井氏の勢力範囲

磐井は八女地域(福岡県の南部)を地盤とする豪族だったが、その勢力範囲は筑紫から豊国、火国(肥国)にまで及んでいた。
冒頭に紹介した九州の国分けで言えば、熊曽以外、九州北部のほぼ全域を掌握していた事になる。

磐井の乱

記紀によれば、磐井は朝鮮半島の混乱に乗じて継体天皇に反旗を翻し、半島南部の任那に向かっていた朝廷軍を妨害、朝廷は急遽、磐井に軍を差し向け、激戦の末にこれを討ち取った、と歴史に残されている。
“逆賊”磐井伝説であるが、半島南部と交易するヤマト政権に対して、磐井は独自に高句麗や新羅といった北部諸国と結びついていた様子がある。
雄略の没落から継体に至る時代はヤマト政権の混乱期であり、継体天皇にとっても磐井との戦は一番の大勝負であった。
磐井の乱は単なる地方の反乱というモノではなく、その後の「日本」の形も変えかねなかった古代史最大の「内戦」だった。

筑紫王国

敗れた磐井は、北部九州最大の前方後円墳(全長135メートル)岩戸山古墳に葬られた伝わるが、その近くには磐井の祖父世代の王墓とされる石一山古墳なども点在する。
彼は一代の成り上がりではなく、古墳時代の北九州に覇を唱えた「筑紫王国」、「北九州王朝」の王だったともいえる。


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