御三卿

御三卿〜将軍継嗣を安定させる

御三卿(ごさんきょう)は徳川吉宗がつくった将軍家の一門。田安家(始祖は徳川宗武)・一橋家(始祖は徳川宗尹)・清水家(始祖は徳川重好)の三家。将軍位の後継問題を安定させる目的があった。諸大名の上位ではあったが、幕政には直接関わらず。

目次

御三卿の簡単まとめQA

徳川吉宗の後継者構想とは?
将軍位の後継問題を安定させ、かつ吉宗の血統を維持する目的があった
御三卿の幕府における役割は?
将軍継嗣問題を避けて、安定した将軍位の継承を行うための存在だった
御三卿の家格と待遇とは?
諸大名の上位ではあったが、幕政には直接関わらなかった

将軍家では後継者争いが悩みのタネ

将軍家の安定と吉宗の血統を維持する目的

8代将軍・吉宗は、将軍家を安定させるために独自に御三卿をつくった。田安家、一橋家、清水家の三家だ。
将軍家の身内でありながら、その上、吉宗の血統を維持するという考え方があった。

4代将軍・家綱が継嗣争いで苦労した教訓か

さらに将軍継嗣問題については、4代将軍・家綱が継嗣争いで翻弄され、苦労したことがあった。これが大きな影響を及ぼしたとも考えられる。

次の将軍を誰にするか、で幕府が分裂の危機に

4代将軍・家綱の病状が悪化したとき、子がないこともあって後嗣を誰にするかが浮上した。
有力視されたのは家綱の弟で甲府25万石の綱重、館林25万石の綱吉の2人だ。
しかし、大老・酒井忠清は「有栖川宮幸仁(ありすがわのみやゆきひと)を迎えて、将軍に」と提案しており、さらに御三家のひとつ、水戸の徳川光圀は「綱重の子である綱豊に継がせたい」と主張。綱豊は後に6代将軍・家宣となった。
この時は最終的に老中・堀田正俊が家綱の病床に伺候し、綱吉を養子にして25歳で5代将軍に就いた。

8代吉宗のときも後継者問題が勃発

長男・家重、次男・宗武、四男・宗尹、と3人の候補

8代将軍・吉宗の子は、三男が早世したものの、長男・家重をはじめ、次男・宗武、四男・宗尹がいた。

長男・家重が病弱ゆえ、次男を推す重臣らが現れる

長男・家重は生まれつき虚弱体質で、おまけに話す言葉が不明瞭で聞きとりにくい。
吉宗は後継者をどうするかで悩んでいた。老中のなかには「聡明な宗武を将軍後継者に」という者もいたほどだった。

当時は長兄が将軍になるのが習わしだった

しかし、当時の考え方では家督相続に能力は関係なく、血筋が優先され、長幼の序が重んじられていた。
もし、嫡子を廃し、次男や三男を継嗣に立てると悪例とされ、天下の人心に大きな影響を与えると考えられていた。
2代・秀忠は三男であったが、長男・信康はそのとき既に他界、次男・秀康は血統に問題があった為、上から順に秀忠が就任した。

御三卿創設〜将軍継承のため吉宗が決断

長男・家重が将軍に就任、弟2人は分家となる

吉宗は家重を継嗣とし、享保10年(1725)、西の丸へ移した。西の丸に住ませることで、家重を次期将軍にすると世に明らかにしたわけである。
それと同時に宗武と宗尹を分家させることにした。

次男・宗武に【田安家】を開かせる

享保16年(1731)、宗武を元服させ、翌年、江戸城田安門内に屋敷を与え、田安家をつくらせた。家名は門の名にちなむ。
ただし田安家は大名家ではなく、あくまでも将軍家の身内という扱いだった。そのため、家臣は幕臣が派遣されて務めた。
宗武が自ら雇うことを許されたのは下級の武士だけである。

四男・宗尹に【一橋家】を開かせる

吉宗はその後、寛保元年(1741)、24歳の宗尹に、江戸城一橋門内に屋敷を与えて一橋家を開かせた。所領は10万石である。

9代・家重の次男・重好に【清水家】を開かせる

清水家は吉宗の没後、宝暦8年(1758)、9代将軍・家重が、父・吉宗が田安家、一橋家をつくった意図をくみとり、次男・重好が15歳の時に江戸城清水門内に屋敷を与え、分家させた。

10代家治のときも継嗣問題が勃発

長男・家基が急死、田安家の当主も既に他界

安永8年(1779)、10代将軍・家治の長男・家基が急死し、突如、継嗣問題が起きた。
継嗣候補は田安家、一橋家、清水家の御三卿から出すことになった。しかし、田安家の2代当主・治察(はるあき)は、すでに安永3年(1774)、23歳の若さで病死している。
他の子は他家の養子になっており、後継者はいない。

一橋家から豊千代(11代・家斉)が継嗣となる

そこで将軍家養子は一橋家からということになった。一橋治済(はるさだ)の嫡男・豊千代(後の11代将軍・家斉)である。
当初、賭料は3万俵だったが、延享3年(1746)には10万石に引き上げられた。

吉宗の血統は14代・家茂まで続いた

将軍家との関係が悪化していた御三家

御三卿がつくられたとき、すでに御三家があったものの、御三家と将軍との関係がうまくいっていなかった。
そこで吉宗は、より身近な分家を新たにつくり、将軍家を安定させようと考えた。
これが御三郷をつくろうとした動機だった。

吉宗の目論見どおりか、吉宗の血統は安定した

10代将軍こそ家重の長男・家治が継いだものの、その後、11代将軍は一橋治済(吉宗の孫)の長男・家斉、12代将軍は家斉の長男・家慶が就く。さらに13代将軍は家慶の四男・家定、14代将軍は紀伊藩主・斉順(家斉の七男)の長男・家茂、15代将軍は一橋慶喜(水戸藩主・斉昭の七男)となる。
つまり、最終的には吉宗の血筋が14代まで続いたわけだ。

御三卿の歴代当主

各家の最大の務めは、将軍家の継嗣問題を解決し、いざというときに養子を出すことだった。そのため、家督を永続させることに対しては重視しておらず、当主やその嫡子が御三家や御家門の家に養子に入るケースもあった。当主不在でも屋敷や領地、家臣団は解体されず明屋敷の状態となった。

田安家 清水家 一橋家
初代宗武重好宗尹
2代治察(1771〜1774)敦之助(1798〜1799)治済(1764〜1799)
3代斉匡(1787〜1836)斉順(1805〜1816)→紀伊徳川家11代当主となる斉敦(1799〜1816)
4代斉荘(1836〜1839)→尾張徳川家12代当主斉明(1816〜1827)斉礼(1816〜1830)
5代慶頼(1839〜1863)斉彊(1827〜1846)→紀伊徳川家12代当主斉位(1830〜1837)
6代寿千代(1863〜1865)昭武(1866〜1869)慶昌(1837〜1838)
7代亀之助(1865〜1868)→徳川宗家を継ぐ慶壽(1838〜1847)
8代昌丸(1847〜1847)
9代慶喜(1847〜1859/1862〜1866)→徳川宗家を継ぐ

出典・参考資料(文献)

『No.155 歴史人2023年11月号 徳川15代将軍ランキング』ABCアーク


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