6代徳川家宣

6代将軍 徳川家宣

5代綱吉路線からの脱却を図る

徳川家宣(いえのぶ)(生没1662-1712)は江戸幕府の6代将軍(在職1709-1712)。この時代は正徳の治と呼ばれる。5代綱吉からの路線変更を図り、生類憐みの令を廃止、新井白石を登用した。

守られなかった綱吉の願い

5代・徳川綱吉は臨終の際「生類を憐れむことは100年後まで守り続けるように」と言い残したが、48歳で将軍になった家宣は、はじめに「生類憐みの令」を廃止した。これには幕閣も反対しなかった。

好きだった能楽を側近・新井白石に否定される

家宣の趣味としては、能楽好きだったことが挙げられる。あまりに好んだため、見兼ねた白石からは天下の主に相応しくないとたしなめられたほどであった。

目次

家宣の関連年表

出来事
ェ文2年(1662) 甲府徳川家の徳川綱重(家光の2男)の長男として生まれる
延宝6年(1678) 綱重が死去し、17歳で家督を相続する
延宝8年(1680) 4代将軍家綱が重態に陥った際、綱吉とともに5代将軍の有力候補になる
宝永元年(1704) 43歳の時、綱吉の養子になり家宣と改名。甲府徳川家は家宣の将軍後継に伴い絶家
宝永6年(1709) 綱吉が死去。48歳で第6代将軍に就任。甲府藩以来の側用人間部詮房を重用。柳沢吉保は辞職し、儒者の新井白石を登用する。「生類憐みの令」を廃止し、儒教に基づく政治改革を行い、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす
宝永7年(1710) 「武家諸法度」を改定。皇統の断絶を危惧し閑院宮家を創設。貨幣を改鋳し宝永金銀を発行する
正コ元年(1711) 朝鮮通信使の待遇を簡素化。将軍の称号を日本国王とする
正徳2年(1712) 江戸に大名火消を設置。勘定吟味役を再置。貨幣改鋳の弊害が起きたため、勘定奉行の荻原重秀を罷免する。家宣、将軍就任の3年後に50歳で死去

叔父・綱吉より継嗣とされた家宣

綱吉は男子ができず、甥の綱豊(家宣)を継嗣とす

兄・家綱(4代)と同じく跡継ぎをもうけられなかった5代・綱吉は、宝永元年(1704)12月、亡兄・綱重の子で甲府徳川家35万石の大名だった綱豊(つなとよ:家宣の幼名)を跡継ぎに定めた。
綱吉59歳の時である。

家宣は継嗣となり、江戸城西丸で生活する

綱豊(家宣)は将軍継嗣となったことで江戸城西丸御殿に入り、名も家宣と改めている。
本丸は将軍の居所で、西丸は将軍の継嗣や隠居した将軍の居所とされていた。
将軍の座に就くまでの間、家宣は西丸御殿での生活が続いた。

父・綱重が死去し、次に叔父・綱吉が将軍となる

家宣は長らく将軍継嗣の有力候補であった。4代・家綱が病没した時、長幼の順から言えば父・綱重が将軍職を継承するはずだったが、既にこの世を去っていたため、延宝8年(1680)に綱吉が35歳で将軍となる。

綱吉は中継ぎ将軍、家宣を本命とみなす風潮もあった

この時、綱豊(家宣)は19歳だったが、若さがネックになったのだろう。ただ、徳川御三家の水戸藩主・徳川光圀などは、綱吉を綱豊が将軍となるまでの中継ぎの将軍とみなし、次期将軍として綱豊を推していた。
だが、実子を跡継ぎにしたい(男子が欲しい)綱吉がこれに抵抗した結果、将軍継嗣となるのが遅れたのである。

家宣が歴代最高齢で将軍に就任

就任が遅れた分、老獪で思慮深かったという

綱吉の死を受け、家宣が6代将軍の座に就いたのは宝永6年(1709)5月のことであった。
既にに48歳であり、徳川15代のなかでは最高齢で将軍の座に就く。
その分、思慮深い人物であり、御世辞や追従なども嫌ったという。

甲府時代からの側近、間部詮房と新井白石

政治手法については、綱吉と同じく分家から将軍の座に就いたため、甲府時代からの側近を重用した。
側近を幕政に参画させることで、老中たちで構成される幕閣を抑え込もうとしたのであり、その点では綱吉と同じ政治スタイルを取ったと言える。側近政治により、家宣の意向が幕政にそのまま反映されることを狙った。
そこで頼りにした側近は2人いた。一人は側用人に抜擢した間部詮房(まなべあきふさ)で、もう一人は政治顧問の侍講に任命した朱子学者の新井白石だが、白石の場合はブレーンに近かった。

新井白石を重用した家宣政権

不評だった綱吉の政策を撤回、白石を重用

家宣は将軍となるや、「生類憐みの令」の廃止に踏み切るなど、不評だった綱吉の政策を次々と撤回した。
綱吉が重用した柳沢吉保も退け、それまでの政治を刷新する姿勢をアピールするが、その際には白石の建議を非常に参考にしている。

将軍の称号を「日本国王」に改める

白石は将軍の権威を高めるため、将軍の称号を「日本国大君」から「日本国王」に改めさせた。 家宣の将軍職を祝って朝鮮通信使が来日した際には、その待遇を簡素化したが、これにも将軍の権威を高める狙いが込められていた。
家宣が生まれながらの将軍ではなかったため、将軍としての権威に欠けたことへの配慮もあっただろう。

貨幣政策に失敗しインフレを引き起こす

粗悪な貨幣を大量生産し消費が加速、物不足に陥る

内政では、綱吉時代の否定を意味する貨幣の改鋳を主導する。
幕府は財政難を背景に、金貨や銀貨の質を落とした改鋳に踏み切ったが、貨幣の価値が落ちたことで経済は混乱し、インフレが起きた。

貨幣の金銀含有率を元に戻し、消費が減速する

よって、白石は幕府権威を失墜させた改鋳だったとして、その責任者たる勘定奉行・荻原重秀を罷免するよう、家宣に諫言を繰り返す。
正徳2年(1712)9月に至って、家宣は白石の諫言を容れて荻原を罷免した。
そして、金貨や銀貨を改鋳し、その質を元に戻した。

わずか3年で「正徳の治」が終りを告げる

家宣の治世は元号をとって「正徳の治」と呼ばれる

家宣は側用人の間部をして老中を抑え込みながら、白石の建議を参考にした様々な施策を断行した。
その施政は当時の元号を取って「正徳の治」と呼ばれるが、家宣の治世は短かった。

わずか三年で家宣が没し、次の政権へ移行する

正徳2年(1712)10月に在職3年ほどで病没したため、目指した幕政の刷新は道半ばに終る。
在職期間が短かったこともあり、綱吉の時代のような政権の変則的な動きは起きていない。
そして、次の7代・家継政権へと引き継がれる。

出典・参考資料(文献)

『No.155 歴史人2023年11月号 徳川15代将軍ランキング』ABCアーク


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