新井白石

正徳の治 新井白石

新井白石

儒学の知恵を政治に応用

新井白石は長い間、職に恵まれず、主家を転々としていた。
儒学の師である木下順庵(きのしたじゅんあん)は白石を加賀前田藩に推挙したが、同門の一人がその職を求めた為、譲っている。
結果として、この譲渡は白石にうまく転んでいる。
翌年の1693年、後に6代将軍の徳川家宣(いえのぶ)となる甲府宰相・徳川綱豊(つなとよ)に召し抱えられたからである。
白石は儒学者として召抱えられた為、家宣への進講を本務としていた。
しかし、次第に政治への意見を求められ、施政を担うようになったのである。
この体制は、家宣が在職4年弱で死去した後、4歳で将軍となった家継の治世にも引き継がれた。

新井白石の内政

白石の献策としては、内政面では、武家諸法度の改訂、質・量ともに慶長金銀に復する正徳金銀の改鋳、司法判決への建言、朝廷との共存関係の構築が挙げられる。
白石は儒学の理想である「君子仁厚の政(くんしじんこうのまつりごと)」を行おうとしており、自分は不仁とみなす政治を改めようとした。

儒学による貿易の制限

外交では、海舶互市新例(かいはくごしれんれい)を発し、密貿易の監視を強め輸出入品の制限を広げた。
これは儒学書の「大学」にある「入るを量り出るを制す」を、白石なりに経済に応用したものである。
白石の施政は理想主義に走り、経済面で破たんを招くケースが多かったが、概ね善政と受け取られた為「正徳の治」と呼ばれた。
しかし、儒学者にしては言動に角があったといわれ、8代将軍の徳川吉宗とは馬が合わなかったようだ。



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