徳川綱吉

生類憐れみの令 徳川綱吉

徳川綱吉

館林藩主から将軍の座に

徳川綱吉は、兄で四代将軍の家綱の後を継いで、館林藩主から将軍の座に就いた。
三代将軍家光の生存する男子という点では綱吉は唯一の将軍候補であったが、家康の曽孫世代という点では御三家にも候補者がいた。
「公方の後をたて林かな」と狂歌に詠まれるように、紆余曲折を経ての就任であった。

政治の実権を、幕閣から取り戻す

将軍に就任した綱吉は、直ちに当時権勢をふるっていた大老の酒井忠清(さかいただきよ)を罷免している。
政治の実権が、将軍から幕閣に移っていたのを、取り戻す為であった。
大老堀田正俊(ほったまさとし)を補佐に置き、綱吉は大名の御家騒動を自ら裁定するなど、政治に直接参与する姿勢を強く打ち出した。
治政不良大名を改易・減封して、将軍が自由に大名の家格を剥奪できることを示し、権威を誇示した。

天和の治から犬公方へ

一方で、綱吉は儒学に傾倒しており、民政に対しては徳と仁を意識した施政を展開し、「天和の治(てんなのち)」と呼ばれた。
腐敗代官を解雇して賞罰厳明を徹底させる、諸国に忠孝を奨励する高札を立てる、自ら幕臣に講義するなどの方法で人心の教化を図った。
そのうちの一つである「生類憐れみの令」は、捨て子や動物虐待が蔓延る世情を改め、仁愛の精神を養う目的で始められた。
しかし、運用にあたる官僚機構が未熟だったため、末端で極端な運用がなされ、結果的に庶民を苦しめる事になってしまう。
この際、綱吉の母・桂昌院(けいしょういん)が犬の保護を進めた為、綱吉が「犬公方(いぬくぼう)」と呼ばれたといわれる(後世の創作の可能性有)。
しかし、儒学の理想や仏教信仰を重んじる治世が、財政を悪化させたのは事実であった。
それを貨幣改鋳で賄おうとし、小判の価値を落としてしまい経済が混乱し、これも庶民を苦しめる結果となってしまう。

徐々に政治への関心を失う

大老 堀田の死後、綱吉は幕閣と距離を置いたため、柳沢吉保(やなぎさわよしやす)などの側近が施政の実務を動かした。
この体制は将軍の意向を政治に反映できる利点があった。
政権が長期化すると、綱吉は政治への関心を失い、幕政は停滞する。
富士山の噴火や大火などの災害が多発する中、具体的な対策を執れないまま、その治世を終えるのであった。



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