2代徳川秀忠

2代将軍 徳川秀忠

徳川秀忠(ひでただ)(生没1579-1632)は江戸幕府2代将軍(在職1605-1623)。関ヶ原の戦いに遅参した事で知られる。家康の三男である。兄に結城秀康がいたが、秀康の母は家康・正室の築山殿が正式な側室と認めていなかったため、弟の秀忠が繰り上がって後継者に指定された。1615年に武家諸法度・禁中並公家諸法度を制定、形のうえでは「秀忠の命」として発布された。長男・家光に将軍職を譲った後は大御所として実権を掌握。54歳で死去。

目次

秀忠の関連年表

出来事
天正7年(1579) 家康の三男として誕生
文禄4年(1595) 17歳で豊臣秀吉の養女・お江(浅井長政の三女)と結婚
慶長2年(1597) 長女・千姫(のちの豊臣秀頼の正室)が誕生
慶長5年(1600) 関ヶ原の戦いに別働隊を率いて参戦したが本戦には間に合わず
慶長10年(1605) 第2代将軍となる。大御所となった徳川家康と共に政治を行う
慶長12年(1607) 江戸城の天守が完成
慶長19年(1614) 大坂冬の陣に参戦
慶長20年(1615) 大坂夏の陣に参戦し豊臣家を滅ぼす。武家諸法度や禁中並公家諸法度などを父・家康とともに制定
元和2年(1616) 家康死去。遺骸を久能山に葬り、後に日光に移す
元和5年(1619) 福島正則を改易。大坂に町奉行、城代・城番を設置
元和6年(1620) 娘・徳川和子が108代天皇・後水尾天皇に入内
元和8年(1622) 長崎でキリシタンが多数処刑される(元和の大殉教)
元和9年(1623) 長男・家光に将軍職を譲る。大御所として実権を掌握し、江戸城西の丸にて隠居
寛永元年(1624) 女御・徳川和子が中宮となる。天皇家の外戚に
寛永2年(1625) 将軍家の菩提寺である寛永寺を創建
寛永9年(1632) 54歳で死去

三男でありながら後継者になった秀忠

幼名は長丸(ちょうまる)、1579年(天正7)生まれ

家康の跡を継いで2代将軍となったのは、三男・徳川秀忠であった。 秀忠は天正7年(1579)4月、当時の家康の居城・浜松城で生まれた。幼名は長丸(ちょうまる)という。

家康の長男・信康は自害に追い込まれていた

三男の彼が、なぜ家康の後継者となったのか。ひとつは長男・信康(のぶやす)が同天正7年9月に亡くなっていたことだ。
家康が織田信長に強いられて自害させたというのが定説だが、浜松城の家康を支える家臣団と岡崎城にいた信康を支え家臣団の間に当時、深刻な対立があり、事態を危険視した家康が信康に自害を命じたとする説もあり、今もってその理由は判然としない。

次兄・秀康は正式な嫡男として認められず

次兄の秀康は、秀忠より5歳年上で長幼の順からいえば、彼が跡継ぎとなってもおかしくない。ところが、彼は正式な家康の子としては認められていなかった。その理由は、秀康の母・長勝院(ちょうしょういん)が家康の側室となることを正室・築山殿(つきやまどの)が認めず、城から追放し、その追放中に生まれた子供だったためという。
結局、築山殿が死去するまで家康に認知されず、弟の秀忠が嫡男に繰り上がる格好となった。

関ヶ原に遅参するも、後継者には指名

あくまで家康の指示による寄り道であった

関ヶ原の戦いでも、家康は次兄の秀康を本戦に参加させず、秀忠が徳川軍の主力を率いて中山道を進み、上方に向かうよう命じた。
家康自身は本隊として旗本部隊を率い、別ルートの東海道経由で上方へ向かっている。
よくいわれるのが、秀忠が途中の信濃上田城攻略に手間取り、関ヶ原の決戦に間に合わなかったという話だ。だが信濃攻略は家康の指示であり、遅刻は悪天候など想定外の事態によるものでもあった。

秀忠以外を安易に選ぶのもリスクがあった

関ヶ原の戦いの時点で秀忠を後継者とすることはすでに既定路線であり、家康の考えは変わらなかったと思われる。
秀忠の同母弟に忠吉(ただよし)(生没1580-1607)がいるが、こちらも若くで亡くなっており、秀忠を後継に選んだのは大正解であった。(そもそも後の時代のように大奥という将軍の子供を産むための施設がなかった)

跡取り・竹千代(家光)が生まれた事も決め手に

秀忠を後継者に選ぶことに、不安がないわけではなかった。
秀忠と正室・お江(ごう)との間には千姫(せんひめ)をはじめ娘が4人も生まれたが、男子がいなかった。江戸開府の翌年にあたる慶長9年(1604)、ようやく跡取りとなる竹千代(家光)が生まれた。家康は安心したとみえ、その翌年に秀忠に将軍の座を譲った。
もし秀忠に跡取りがいなければ相続問題が起きた可能性は高い。

家康が2年で将軍を退き、秀忠が2代目に

大坂・豊臣家を無視して徳川の天下を知らしめる

家康は2年で将軍職を退き、慶長10年(1605)に秀忠に将軍職を譲った。 秀忠が跡継ぎであることが天下に表明されるとともに、以後、徳川家が将軍職を世襲するという宣言でもあった。
まだ大坂城に豊臣秀頼がいたから、これは大きな意味を持った。
ただ秀忠は将軍となったものの実権は「大御所」となった前将軍・家康が握り続けた。江戸城の秀忠、駿府城の家康という二頭体制のもとで、江戸幕府は運営されたのである。

「どこを居城にするか」を親子で共に考えていた

江戸幕府の公式記録『徳川実紀』には、関ヶ原の戦いの後に交わされた家康と秀忠の会話が残る。
「この戦いで西軍の大名から奪った領地を東軍の功労者に与えるが、その前に、私たちの居城をどこに置くか決めなくてはならない。江戸を拠点とすべきか」と尋ねる家康に対し「私はまだ若く、何もわきまえがありません。ただ、天下を経営する場所を居城とすべきだと思います。いずれにしても父上のお考えに従います」と秀忠は応えている。

江戸を徳川の拠点とし、秀忠が開府を担当する

家康には当時、江戸以外の地を居城とする考えもあったようだ。
そして、親子で考えた末に豊臣家を大坂に残し、江戸を徳川家の拠点にする決断を下したのである。
そして将軍となり、江戸城を任された秀忠は家康の方針に忠実に従い、幕府の基礎固めを着実に実行した。この愚直さが幕府の足場固めをすべき2代目に求められたともいえる。秀忠はそれに応えたのである。

豊臣家を滅ぼし、完全な徳川の天下に

秀頼が大坂にいるうちは天下泰平とはいえなかった

秀忠の将軍就任から9年が経った慶長19年(1614)、ついに家康は豊臣家追討を決意した。大坂の陣である。
73歳の家康最後の陣頭指揮であったが、その隣には36歳の秀忠も布陣し、事実上の総大将を立派につとめた。この戦いで戦国乱世には終止符が打たれることになる。
そして、家康・秀忠のように軍勢を指揮した将軍は、幕末の14代・家茂15代・慶喜が大坂城内で指揮するまで存在しなかった。

「武家諸法度」をもとに諸大名を改易に処す

豊臣家を滅亡させた翌・元和2年(1616)、大御所・家康は駿府城で没し、幕府権力は秀忠のもとに一本化された。
秀忠はみずから発令した「武家諸法度」をもとに、諸大名を改易に処し、幕府権力の強化をはかった。

外様・譜代大名、徳川一門まで改易の対象となった

諸大名を改易は、外様大名はもちろん、譜代大名や徳川一門の親藩大名も例外ではない。
越後・高田城主の松平忠輝(家康の六男)を最初に改易の対象にしたことからも並々ならぬ覚悟がうかがえる。
さらには元和5年(1619)6月、外様大名の代表格である、広島城主・福島正則を改易した。正則が禁令に背いて広島城の修築をしたというのが理由である。
同年、譜代大名の本多正純をも改易に処した。正純は家康が最も信頼した本多正信の子で、秀忠付の年寄役(のちの老中)でもあったが、これは正純と秀忠側近による対立が原因と考えられる。

甥まで容赦なく隠居に追い込む

越前北の庄城主・松平忠直は秀忠の甥にあたり、3女・勝姫を嫁がせていた義理の息子でもあったが、元和9年(1623)に隠居に追い込んだ。乱行や江戸への参勤を拒否したのが名目であった。

秀忠時代に改易となった主な大名

秀忠政権下での改易は41家にのぼる

秀忠政権下での改易は41家にのぼる。すべて家康の死後に断行された。兄の秀康の子・松平忠直や、本多・青山といった三河以来の譜代大名も含まれており、苛烈を極めた。

大名領地石高理由
松平忠輝高田藩45不届
本田正重舟戸藩1所領取公
大久保忠為新田藩1不明
池田利隆姫路藩39所領取公
福島正則広島藩49幕法違反
田中忠政柳河藩32.5無嗣断絶
最上義俊山形藩57御家騷動
織田長益大和国内1所領取公
本多正純宇都宮藩15.5釣天井事件
本多正勝小山藩1正純に連座
松平忠直福井藩67不行跡
青山忠俊大多喜4.5将軍の勘気
本多忠刻新田藩10無嗣断絶
蒲生忠郷会津藩60無嗣断絶
加藤忠広熊本藩52御家騷動?

秀忠の孫が明正天皇として即位

娘・和子が後水尾天皇に入内し娘を出産

秀忠の代には天皇家との婚姻も、娘の和子(まさこ)が後水尾天皇に入内したことで実現している。
家康が生前に申し入れたもので、慶長19年(1614)4月に宣旨も出されていたが、同年に始まった大坂の陣および家康の死去、後陽成院の崩御など、大事が続いたこともあり延期されていたが、元和6年(1620)に成立した。
4年後、和子は興子内親王を出産。彼女は寛永6年(1629)、明正天皇として即位した。

家光に将軍職を譲った後、隠居し死去

家光とともに上洛、後水尾天皇に拝謁

同・元和9年、秀忠は家光に将軍職を譲り、江戸城西の丸(現・皇居)に移った。それ以前に家光の負担となるような諸問題を自らの手で処理したかったためと思われる。
寛永3年(1626年)10月25日から30日まで後水尾天皇の二条城への行幸の際には秀忠と家光が上洛、拝謁した。

家光への遺言

秀忠は、家光に対して「徳川家はまだ歴史が浅く、いまだ全て整備が完了しているわけではない。私が世を去ったあと、おまえが遠慮することなくそれらを改正してしまうことが私の志を継ぐものとしての親孝行の道となろう」(『徳川実紀』)と遺言している。

1632年3月14日、54歳で死去

寛永8年(1631年)には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、寛永9年1月24日(1632年3月14日)に死去。享年54(満52歳没)。
父・家康と同様、自身の役割を全て終えてからの永眠となった。

出典・参考資料(文献)

『No.155 歴史人2023年11月号 徳川15代将軍ランキング』ABCアーク


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