12代徳川家慶

12代将軍 徳川家慶(いえよし)

天保の改革に取り組み、黒船難局中に没す

経済の一大改革を老中・水野忠邦に託す

徳川家慶(いえよし)は江戸幕府12代将軍(在職1837-1853)(生没1793-1853)。水野忠邦を重用し天保の改革を行わせた。ただし、自身は積極的に政務へ関わる姿勢を見せなかったため「そうせい様」といわれたという。黒船来航という国難の最中に死去する。

目次

家慶の関連年表

出来事
寛政5年(1793) 家斉の次男として誕生
天保8年(1837) 将軍宣下
天保10年(1839) 水野忠邦が老中首座に任命される
蛮社の獄で高野長英、渡辺華山を弾圧
天保11年(1840) 川越・長岡・庄内の三方領地替えを決定するが翌年撤回
天保12年(1841) 家斉が亡くなり、天保の改革を開始
四男の家定を将軍継嗣に決定
天保14年(1843) 人返し法を発布し、離農者の帰村を奨励
印旛沼の開拓を進めるが翌年中止
上知令を出すが実施できず
厳しい取り締まりに庶民から不満が上がり、天保の改革が頓挫・中止。水野忠邦が罷免され、代わりに土井利位が老中首座に任命される
天保15年(1844) 江戸城本丸が火災で焼失し、再建費用徴収失敗の責任を取り土井利位が辞任。水野忠邦が老中首座に復帰する
弘化2年(1845) 水野忠邦が失脚し阿部正弘が新たに老中首座に任命される
嘉永2年(1849) 島津家でお由羅騒動が勃発し、幕府が介入
嘉永6年(1853) 4隻の軍艦を率いてペリーが浦賀に来航
還暦の祝の1ヵ月後に死去

父に実権を握られていた将軍初期

5歳で元服、45歳で将軍就任

家慶(いえよし)は家斉(いえなり)の次男で、寛政5年(1793)5月14日に誕生し、6月24日に兄・竹千代が病死したため嫡子となった。同9年に5歳で元服し、西の丸へ移るが、将軍職に就くことになるのは、天保8年(1837)、45歳になってからだった。

父・家斉が大御所として“院政”を敷いていた

その後も4年間、父・家斉が大御所として実権を握っていたため、家慶の時代は、天保12年閏正月30日に、家斉が69歳で亡くなって以降からと言えるかもしれない。

家慶の時代は【水野忠邦の時代】でもある

贅沢を敵とした水野忠邦の緊縮政策

ここから始まるのが、老中首座・水野忠邦が主導する天保の改革であった。
幕府は文政期以降、財政を立て直すため、貨幣改鋳を続けていた。金銀の含有量を減らすことで、これまでの貨幣との差額を幕府の収入とするのである。
品質を下げた貨幣が世に多く流通することで物価の高騰を招き、物価は上昇することになる。
忠邦は、その原因を奢侈に求め、徹底的な贅沢の取り締まりや倹約令を、庶民から武士に至るまで科した。

自由取引でインフレ抑止、人口対策に「人返しの法」

また、株仲間を解散させ、自由に取引をさせることで、物価上昇に歯止めがかかると考えたのである。
また、江戸の人口を減らし、農村の人口を回復させるため、「人返しの法」を発布した。

遠山の金さんが水野忠邦のやり方に大反対

この忠邦のやり方に反対したのが、「遠山の金さん」で知られる、当時の北町奉行・遠山景元である。

幕府事情が最優先だった水野忠邦

忠邦が「人返しの法」で、その日稼ぎの者を江戸から減らすことによって、飢饉の際の一揆や打ちこわしを防ぐことを考えたのに対して、遠山は、町会所に設置する囲米などの救済措置であらかじめ飢饉に備えようとした。

水野と遠山の戦いが激化、家慶は座視?

江戸の人口減少を気にする遠山

また、遠山は、江戸の人口が減少することで、武家や町家の奉公人のなり手が減り、労働力不足から彼らの賃金が上昇し、物価上昇にもつながると指摘した。

歌舞伎を弾圧しようとする水野

贅沢の取り締まりでは、忠邦は、歌舞伎にも目を付けた。
江戸三座(中村座・市村座・森田座)を廃止するか、郊外に移転させようというのである。
芝居小屋が繁華街にあり、火災を出しやすいし、江戸の風俗にも悪影響を与えるというわけだ。

常に【江戸の人々が最優先】の遠山

それに対して遠山は、これまでの享保や寛政の改革の際にも、移転されておらず、特に火災が多いわけではないことや、移転することによって、芝居関係者の営業および生活に悪影響があり、芝居町じぬしの地価が下落して地主も困ることが予想されるとし、反対した。

遠山の意見に耳を傾けた将軍・家慶

この時は、将軍・家慶も遠山の意見を知り、忠邦に再検討を促したという。
しかし、忠邦が、風俗に悪影響を与えると強調したことで、廃止は免れたものの浅草へ移転することになった。

遠山が庶民第一というより、町奉行がそういう仕事

庶民の生活を一番に考えて忠邦と対立する遠山の姿は、時代劇で描かれる遠山の金さんのイメージに沿っていると思われるかもしれない。
しかし、このような考え方は、そもそも、町奉行所の仕事そのものの方針であり、遠山が特別なわけではなかった。

幕府に逆らえば町奉行など(普通は)やられるのみ

しかし、他の奉行は、遠山のように忠邦と真っ向勝負ができなかった。
忠邦によって、遠山の前任者である筒井政憲は左遷されてしまい、同時期の南町奉行・矢部定謙は過去の失態から改易にまで至ったのである。

幕府が奉行を左遷させ、新たに【幕府よりの奉行】を採用

南町奉行・矢部定謙を追い込んだのが、忠邦の腹心である目付・鳥居耀蔵であり、鳥居がそのあと南町奉行に収まった。
当然、鳥居は忠邦の側に付き、遠山には、やり難い状況になっていく。
ちなみに鳥居は甲斐守だったため「耀甲斐(妖怪)」と呼ばれ、江戸庶民から嫌われた。

家慶は【遠山景元がお気に入り】だった

水野忠邦が遠山に手が出せなくなった理由

それでは、遠山はなぜ忠邦と渡り合えたのだろうか。
その背景には将軍家慶がいた。
将軍は一代に一度、三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)の裁判を上覧する公事上聴という儀式をおこなっていた。
家慶の時には8人の奉行が2件ずつ将軍の前で裁いたのであるが、その中で遠山だけ、家慶にお褒めの言葉を賜ったのである。家慶が認めた名奉行に、忠邦も、うかつには手出しができなかったのであろう。

家斉と家慶時代の大奥・姉小路

姉小路〜家慶政権期の大奥最大の実力者

家慶ともう一人、忠邦が悩まされた相手として、大奥の上臈御年寄・姉小路(あねのこうじ)があげられる。 姉小路は、楽宮喬子が家慶の正室になる際に、京都から同行した人物で、家慶政権期の大奥で最大の実力者といわれた。

忠邦も姉小路にはタジタジ

忠邦が大奥に経費削減を求めたところ、男性から隔離された環境にいる大奥の女性たちに、美味しいものを食べ、美しい着物を着るという楽しみを奪うのか、御老中様もお妾が4、5人いるのでは、などと言って忠邦を黙らせたというエピソードが伝わっている。

姉小路と家慶は特別な関係だった?

また、忠邦のあと、権力を握ることになる老中の阿部正弘も、自らは諸方からの賄賂を受け取らなかったにもかかわらず、姉小路には、贈り物をしていたといい、その実力の程がうかがえる。
姉小路は、表の人事に口を出したとも言われ、家慶が亡くなった際には、髪をおろしたという。
家慶と特別な関係であったのではないか、とも伝えられており、深く信頼されていたことは、間違いないだろう。

大奥の女性たちが目にした家慶

家慶の時代に大奥で御次を務めた佐々鎮子によると、なかなかの大酒飲みだったようだ。
お酌をする時に「甘いのが好いか、辛いのが好いか」と聞くので、甘いと申し上げると御機嫌を損ねるので、辛いと言うと、御燗鍋で自ら注ぐのだという。
大きな汁物椀の蓋や大きなお皿にざっと注ぐので、袂の中まで流れ込んでしまい、それを楽しんだという。
なおその時の酒は、御膳酒といって、真赤な色の嫌な臭いのする古い御酒だったという(『旧事諮問録』)。

列強の圧力が激しくなる直前に亡くなる

嘉永6年(1853)6月22日、家慶はこの世を去るが、同月3日には、ペリーが浦賀に来航、7月18日には、ロシア使節プチャーチンが長崎に来航している。
これから激動の時代を迎える、というタイミングで次の将軍へとバトンを渡した家慶であった。


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