徳川家治(いえはる)(生没1737-1786)は江戸幕府10代将軍(在任1760-1786)。父は9代家重である。祖父の8代吉宗からは非常に期待されており、直接の教育・指導が行われた。将軍として48年ぶりに日光東照宮を参拝している。26年の長期政権となったが、老中・田沼意次を重用したが天明の大飢饉で批判を集める。
年 | 出来事 |
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元文2年(1737) | 家重の長男として誕生 |
宝暦4年(1754) | 五十宮と婚礼の式を挙げる |
宝暦10年(1760) | 将軍宣下 |
宝暦11年(1761) | 父・家重が死去 |
安永元年(1772) | 田沼意次が老中に任命される。江戸に大火(目黒行人坂火事)が発生 |
安永5年(1776) | 将軍として48年ぶりに日光東照宮を参拝 |
安永8年(1779) | 長男・家基が鷹狩の帰路に体調を崩し、数日後に死去 |
天明3年(1783) | 浅間山大噴火。天明の大飢饉が始まる(天明7年まで) |
天明6年(1786) | 重病により死去田沼意次らが失脚 |
家治(いえはる)は、9代家重の嫡男として生まれ、祖父の8代吉宗の膝に抱かれながら、普段の立ち居振る舞いから、天下を治める際の心持ちまで、帝王学を授けられていたという。
まだ家治が10歳にも満たないころ、風が強い日に紙鳶(しえん:凧)の糸が切れてどこかに行ってしまったのを、残念に思っている様子が見えたので、老齢の側近が「有章院様(ゆうしょういん:7代将軍家継)の時には、風が強い時にわざと糸を切って飛んでいく様子を御覧になって楽しんでいらっしゃいました。天下を治める身で、わずかひとつの物が無くなったからと言って御心を悩ませなさいますな」と諌めた。その後、風が強い日に家治が「今日は、紙鳶で遊ばない。糸が切れて無くなるのを惜しむのではない。その紙鳶が落ちたところで放置されることはなく、必ず拾って届け出ることになろう。さすれば、下々の者に気を遣わすことになるだろう。私一人の楽しみに多くの人に気を遣わせるのはあってはならないことだ」と述べたという。
幼い家治は、上に立つ者の鷹揚さよりも、下々の者へのこまやかな心遣いを持ち合わせていたようだ(『俊明院殿御実紀』)。
家治の人柄は、温和で慈愛に満ち、聡明だったという。
加えて、弓術・馬術・砲術などにも優れていたという逸話も残されている。
家治は、宝暦10年(1760)5月、24歳の時に父・家重から将軍職を委譲された。その翌日、老中である松平武元(たけちか)を呼んで、「私は若く、まだ国家の政治に習熟していない。不幸なことに、父が多病でおられたので、やむを得ず天下の政治を行うことになったが、非常に恐ろしく、手足の置き所が無いような状況である」と、若くして将軍となった不安と戸惑いを率直に口にしている。そして武元に対して、何でも思ったことは全て言上し、家治に過ちがあれば諫言するように述べている。
武元は吉宗にその才を見出され、次の家重政権期から長く老中を務めてきており、吉宗を敬愛する家治にとっては、非常に信頼する人物だったようだ。
結果的に武元は、安永8年(1779)7月25日に亡くなるまで、33年にわたって老中として仕えたことになる。
最後の年には、病気で何度も辞職を申し出たが、家治は許さなかったという。
家治が厚遇した家臣のもう一人、田沼意次が上げられる。
意次は、先代の9代家重が世子の時代に小姓を務めたことに始まり、家重政権期では、御側御用取次(おそばごようとりつぎ)まで出世し、大名にまでなっていた。
このような将軍と側近の関係は、その将軍が将軍職を離れた時点で、側近も政治生命を失うのが一般的であったが、意次はそうはならなかった。
家重は、家治に対して、意次は「またうとのもの(正直者・律義者の意味)」なので、今後もよく召し使うように伝え、家治はそれに従ったのである。
意次は、家治政権期に、大きな政治権力を握った。
意次は、株仲間の奨励をはじめとする商業主義的政策や、蝦夷地開発、通貨の統一と商業の安定化、貿易拡大と技術の導入を計画、流通の活発化を目指した運河・新田開発など、これまでの幕府政治にとらわれない自由な発想で政治に取り組み、家治の信頼も勝ち得たようだ。
意次は、幕府内において権勢を振るいやすい立場にあった。
明和9年(1772)正月15日に、老中格の側用人から老中に就任したが、側用人の兼務も続いた。
幕府の政務を統括する老中と、将軍の執務・生活空間をつかさどる側用人の兼任は、幕府および将軍家の「公」も「私」も力の及ぶ範囲としたことになる。
また、若年寄となる嫡男・意知(おきとも)の妻は、老中・松平康福(やすよし)の娘。次男・意正(おきまさ)は、老中・水野忠友(ただとも)の養子に入っている。こうして他の現役老中との人脈が築かれている。
また、意次が老中になって以降、松平武元をはじめとする先任の老中たちが死去する。こうして、意次の意見が通りやすい環境が出来上がっていった。
天明の飢饉や、天明3年(1783)7月の浅間山の大噴火、一揆や打ちこわしが頻発すると、田沼政治にも暗雲が垂れ込み始める。
後にこの意次と替わって幕政の中心に躍り出ることになるのが、松平定信(さだのぶ)であるが、意次と定信との間には、将軍職をめぐる因縁があった。その因縁とは、8代・吉宗の2男・田安宗武(たやすむねたけ:徳川宗武)の家の相続に始まる。
明和8年7月3日に、前月の宗武の死を受けて、5男・治察(はるあき)が田安家を家督相続した。6男・定国(さだくに)は、同5年にすでに伊予松山藩松平家に養子入りしていた。その後の家治の命で、7男・定信は、安永3年3月15日に白河藩主松平家の養子となった。ところが、同年9月8日に、治察が死去したため、田安家は当主不在となってしまった。
同8年2月24日に、家治の長男である家基(いえもと)が死去した。跡継ぎを失った家治の養君(ようくん)になったのは、一橋治済(はるさだ)の子である豊千代(とよちよ)であった。
定信が養子に出ていなければ、田安家を継ぎ、その後、将軍職に就いた可能性は高い。定信の白河藩への養子入りには意次が関与していたと考えられ、定信は意次に恨みを抱いていたといわれる。
幕府の記録では、家治は天明6年(1786)の9月8日に死去した。
しかし、旗本・森山孝盛の日記(『自家年譜』)には、8月25日と書かれている。
意次が老中を退いたのは、8月27日であり、公式には家治が辞職させた体を取っているが、実際は、家治ではなく幕府内の反・田沼派に辞職願を出すように追い込まれたとみられる。
そして翌年の10月2日、11代・家斉政権期に、意次は2万7千石を没収され、隠居・謹慎を命じられている。
これは、意次が側用人兼老中であったからだと考えられる。側用人のみであれば、家治の代弁者という位置付けから、罪に問えなかったはずである。しかし、意次は老中でもあった。そのため、家治と切り離して考えることができるため、社会情勢の悪化を、意次の失政として責任を取らせたのである。