徳川家斉(いえなり)(生没1773-1841)は、江戸幕府11代大将軍(在任1787-1837)。田沼意次を罷免し、松平定信を老中首座に任命。定信の政策を寛政の改革という。幕府財政の建て直しに失敗し、定信を罷免、寛政の改革も失敗に。家斉が将軍職を子の家慶に譲った後も大御所として実権を握っていたため「大御所時代」と呼ばれる。
年 | 出来事 |
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安永2年(1773) | 一橋家に治済の長男として誕生 |
天明7年(1787) | 将軍宣下。松平定信が老中首座となり寛政の改革が始まる |
天明8年(1788) | 天明の大火が京都で発生。御所が炎上 |
寛政2年(1790) | 寛政異学の禁を発布 |
寛政4年(1792) | ロシア使節ラクスマン、伊勢の漂流民・大黒屋光太夫と根室に来航 |
寛政5年(1793) | 松平定信が老中と将軍補佐を辞職 |
文化5年(1808) | フェートン号事件が発生 |
文政8年(1825) | 異国船打払令を出す |
文政11年(1828) | シーボルト事件が発生 |
天保4年(1833) | 天保の大飢饉が発生 |
天保5年(1834) | 水野忠邦が老中に任命される |
天保8年(1837) | 大塩平八郎の乱、生田万の乱が起こる 次男・家慶に将軍職を譲り、大御所として幕政を主導する |
天保12年(1841) | 閏1月30日 死去 |
家斉(いえなり)は、徳川歴代将軍15名の中で2つの点で、抜き出ている。
1つは、側室および子供の数である。側室は17名、子供は女子が27名、男子が26名、そして性別不明で亡くなった子供が2名いたとのこと。
なお、そのうち成人したのは約半数の28名であった(『徳川諸家系譜』)。
将軍は跡継ぎを得ることが重要な役割の1つであり、そのために大奥という組織もあるわけだが、ここまで弊害まで生まれてしまったようだ。
将軍職を継ぐのは、当然、男子1名のみ。
跡継ぎ以外の子女は、然るべき大名家に養子や正室として入ることになる。
例えば、東京大学本郷キャンパスの赤門は、加賀藩主前田斉泰が36子の溶姫を正室に迎える際に建てた御守殿門である。
将軍家の姫君は、御守殿様と呼ばれ、同等な大名家から迎えるのとは違い、新しい屋敷を新たに建設するなど、莫大な費用がかかった。
そのため、中には、将軍家からの縁談を必死に断った大名家もあった。『想古録』による一例をあげる。
米沢藩・上杉家に、姫君の降嫁の話があった。上杉家の国家老たちは心を痛め、上杉家の興廃存亡に関わるため、是非とも辞退しなければと、時の老中・水野忠成の家老・土方縫殿助に訴えようと、人の紹介を得て、縫殿助の私邸を訪ねたが、面会できなかった。
そこで尾張家に頼り、尾張邸に縫殿助を呼び寄せてもらったが、やはり用があるとして、来なかったのである。
上杉家は、尾張家家老・成瀬隼人正に「御守殿を賜ると、上杉家は到底立ちゆきません」と訴え、気の毒に思った成瀬は権門家の間を奔走して、降嫁は取りやめになった。
しかし、それで終わりではなかった。
その後、上杉家は幕府から上野の普請を命じられ、18万両の巨財を工事に費やすことになり、貧困に陥ったというのだ。
報復行為のようにも見えるこの対応は、幕府側も降嫁先を必死で探していた切実さがあったのかも知れない。
もちろん大名家にとって、将軍家との縁組は名誉であり、家格も上昇、持参金代わりの幕府からの拝借金も得ることができるなどの旨味もあった。しかし、藩庫からの多大な出費や受け入れの賛否などで、大名家内の混乱に繋がる場合もあった。また、縁組を受け入れたことによる家格の変更は、これまでの大名社会の秩序を崩し、大名間の対立をも招くことになった。もちろん幕府財政にも大きな影響を与えたのである。
家斉は歴代将軍のなかでも圧倒的に将軍就任期間が長い。
家斉は、天明7年(1787)に15歳で将軍宣下を受け、天保8年(1837)に65歳で退いたため、将軍在職期間が50年であり、天明・寛政・享和・文化・文政・天保の時代を駆け抜けた。
ちなみに歴代2位の8代吉宗が29年1カ月である。
家斉の在職期間は、3つの時期に分けて考えることができる。
第1期は松平定信が老中首座であった時期、第2期は松平信明ら老中が政治を執る時期、第3期は水野忠成が老中に任命されて以降の時期である。
第1期、天明7年から寛政5年(1793)の、松平定信が老中首座になってから解任されるまでの時期。
15歳の若き将軍を14歳年上の定信が補佐し、寛政の改革を行ったころである。
定信の登場は、最初こそ「ふんどしが出たで世の中しまる也(定信は越中守だったため、越中ふんどしと掛けた)」と喜ばれたものの、あまねく人々に倹約を求めるなどの緊縮財政政策に、結局は「白川の清き流に住みかねて濁りし田沼の水ぞ恋しき」と言われる事態となった(『よしの冊子』)。
ちなみにこの時期は「鬼平犯科帳」で知られる火付盗賊改長谷川平蔵が活躍したころでもあり、彼の建議により石川島に戸籍から外された無宿の更生施設である人足寄場が造られている。
定信は6年余りで老中の座を去ることになるが、そのきっかけとなったのが尊号一件である。
これは、光格天皇が、実父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を宣下したいと幕府に願い出たことについて、天皇位についていない者にはその資格がないと定信が拒否した一件である。
家斉も同様に、実父の一橋治済に大御所の敬称を与えたいと考えていたことから、家斉と定信は対立した。
第2期は、寛政6年から文化14年(1817)までの、松平信明ら「寛政の遺老」と呼ばれる寛政の改革を定信と共に実行してきた老中たちによる政治が行われた時代である。
この頃には、文化元年に、ロシア使節レザノフが長崎に来航し、同5年にフェートン号事件が起こるなど、いわゆる「鎖国」状態にあった日本に、海外からの足音が聞こえてくる時期となっていた。
第3期は、文政元年(1818)に、家斉が水野忠成を老中に任命して以降の時代である。
忠成は、家斉が豊千代時代から小姓として仕えており、田沼意次と同時代に老中を務めた水野忠友の婿養子となった、家斉の側近中の側近である。
家斉は庭園好きで、忠成の本所屋敷も訪れ、庭を見てお茶を飲んで帰ったというが、世の中には、女性の接待があったとの噂が流れ、「隅田川柳をうつす水の面」という句がつくられ「今柳沢」と呼ばれたという(『公徳弁』)。
忠成の振る舞いが、5代将軍・綱吉政権期に権力を持った老中・柳沢吉保に重ね合わされたのである。
また、この時期は「水の出てもとの田沼となりにける」ともうたわれた。
江戸時代は爛熟の時代を迎えていた。
なお、文化文政期は、町人文化が全盛期を迎えていた。式亭三馬『浮世風呂』や十返舎一九『東海道中膝栗毛』、曲亭馬琴『南総里見八犬伝』などの文芸作品が生まれ、葛飾北斎や歌川広重が描く浮世絵が流行した。
水野忠成は、天保5年に亡くなるが、その後も家斉の側近による政治が続き、同4年から10年にかけての天保の大飢饉などにより社会不安は高まり、幕府への不満は同8年の大塩平八郎の乱や生田万の乱などにあらわれる。
家斉は、天保8年に将軍職を家慶に譲るが、その後亡くなるまでの4年間、大御所として君臨した。(大御所時代)