田沼意次

田沼意次

商業経済に着目した

田沼家は8代将軍 徳川吉宗に紀伊藩時代から仕え、吉宗の将軍就任にともない、江戸に召されて幕臣となった。
田沼意次は、16歳で吉宗の子の家重に付く3人の小姓の一人となった。
家重に「田沼は忠義者なり」と信頼されており、御用取次ぎまで出世する。
さらに、郡上八幡(ぐじょうはちまん)で発生した一揆に、家重の命を受けて御用取次の役目外の評定所の吟味を担当し処理するなど、行政手腕でも優れた面を見せている。

腰の低い謙遜家

10代将軍の家治にも重用されて将軍補佐の側用人と、異例ながら政策を立案する老中を一人で兼任した事で、田沼の権力は強まった。
最終的に本丸老中、若年寄(わかどしより)、御用取次や奉行が田沼の血縁・姻戚などの関係者で固められ、田沼は幕政の実質的主導者となった。
しかし本人は奢ることなく、腰の低い謙遜家で、下級の家来にも親しく声を掛けたという。
大奥での評判も良かったという。

田沼時代と呼ばれる施政

意次は、殖産と商・工業への課税を柱とする財政再建策を執った。
このうち殖産では、舶来品の国産化を奨励し、輸入による支出を抑えようとした。
また、株仲間を奨励し、振興の商人・職人の営業権を守る見返りに、冥加金(営業税)を課している。
歳出と歳入の両面から、財政の安定を図ったのだ。
ただし、殖産の献策を受けたり株仲間の許可にあたって、手入(金銭の付け届け)が増えるという弊害も生じた。
手入は当時の社会では普通に行われる習慣であったが、意次を快く思わない勢力からは批判の的にされた。
意次の権勢はこのような批判にも耐えたが、若年寄だった息子の意知(おきとも)を殿中で殺害されたころから陰りがみられるようになる。

意次の失脚

1786年、意次自身の失脚は、将軍家治の危篤に際して、突如として訪れた。
表向きは意次から辞職を願い出た形を取られたが、実質は更迭であった。
所領の多くを没収され、蟄居を命じられた。
その2年後、失意のうちに死去した。



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