徳川家重(いえしげ)(生没1712-1761)は江戸幕府9代将軍(在任1745-1760)。1754年に宝暦の飢饉が発生し、同年、郡上一揆が勃発。将軍職を子・家治に譲り、翌1761年に死去。不正を働く者が在れば幕府関係者でも容赦なく断罪するなど善い君主としての一面もあった。『徳川実紀』では平穏な社会を守った守成の将軍と評された。
日本に在住していたオランダ人の記録には「家重はむちゃな遊楽に耽り、毎晩女を侍らせ、酒を飲んで過ごした」と記されている。また、家重の言葉はだれにも伝わらず、家臣たちを困らせたという。ネガティブな評が多いが、植物をこよなく愛していたという温かい性格の持ち主でもあったともされる。
年 | 出来事 |
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宝永8年/正コ元年(1712) | 第8代徳川将軍・徳川吉宗長男として誕生。 |
享保9年(1724) | 家重の小姓に大岡忠光がつく |
元文2年(1737) | 長男・徳川家治が誕生。 |
延享2年(1745) | 第9代徳川将軍に就任する。 |
宝暦4年(1754) | 3年にわたった凶作で「宝暦の飢饉」発生。 死者5万人以上とも。 |
宝暦4年(1754) | 郡上一揆が勃発。幕府評定所で裁判が実施される。 |
宝暦5年(1755) | 幕府の治水工事で多数の犠牲者を出した『宝暦治水事件』 |
宝暦8年(1758) | 史上初の幕府による尊王論者への弾圧をした「宝暦事件」 |
宝暦10年(1760) | 将軍職を徳川家治に譲る。 |
宝暦11年(1761) | 死去。 |
9代将軍の家重は、正徳元年(1711)12月に依然、紀州藩主であった吉宗とお須磨の方(深徳院)との間に生まれた。長じると、父は8代将軍になっており、家重も「いつかは自分も将軍に」と考えていただろう。
そのような家重に、吉宗も儒学者の室鳩巣(むろきゅうそう)を付けたり、武芸の指導も一流の指導者を付けるなり、英才教育により大事に育てた。
政治の実際の場をみるようにと、吹上の庭での三奉行訴訟裁断の様子を見学させたり、鷹狩に同行させることもあった。
家重は草木の花を愛し、盆栽も愛した。
家重は、温厚な性格であり家臣思いの人物であったが、生涯、言語に不自由があった。
そのためか、特に将軍就任前は、大奥にいることが多かったともいわれ、また、心から信頼できるものも少なかった。
長じて、酒色に没頭することもあったという。
享保16年(1731)、伏見宮邦長親王の姫・比宮培子(證明院)と婚姻し、延享2年(1745)、父・吉宗の隠退に伴い家督を譲られ、11月2日将軍宣下を受け、9代将軍となる。
ただし、家重の将軍就任をめぐっては多くの風説がある。
以下に記す。
吉宗には男児が4人おり、長男・家重、次男・宗武、3男は早世、4男が宗尹である。
宗武は江戸城田安御門に、宗尹は一橋御門にそれぞれ屋敷を拝領し、田安家、一橋家を名乗り、将軍家族として遇され、徳川を名乗ることを許された。
のちに、家重の次男、重好が清水御門に屋敷を拝領し、同様な待遇を得る。
これが、御三郷である。
将軍に男子がいなければ、この三家から将軍を選ぶ措置であった。
少し時を遡って、家重将軍宣下の前の10月9日に吉宗政権の実力者である老中・松平乗邑(のりさと)が理由不明のまま罷免となった。
それは、優秀英邁であった宗武を将軍の座につけようとしたことにあったとされる。
一説には、乗邑は、吉宗自身が家重の将軍としての資質に心配していることを汲んで計画したともいい、ある一説には乗邑自身が権力を握り続けるため朝廷を利用して画策したともいわれる。
権力者乗邑の突然の解任が様々な風聞を生んだ格好であるが、結果として吉宗は長男相続という徳川家の祖法を変えることに躊躇し家重の将軍継承を決定した。
吉宗が寛延4年(1751)6月に没後、老中・松平武元らと側用人・大岡忠光と協調し幕政は運営された。
家重は表に出て政治を行うことは少なかったようである。
ただし、時には自分で動いて厳しい裁断を下す事もあった。
家重の時期は備後福山、筑後久留米、美濃郡上八幡、信州上田の各藩で大規模な一揆が起こった。
特に郡上八幡の大名・金森頼錦は、幕府の奏者番に就任したため、その支出を農民に転嫁し、もっとも過酷な年貢徴収法である有毛検見法を採用したことに、農民が反発したのが一揆の要因であった。
最終的に、農民は江戸城の目安箱に箱訴し、家重がこれを謁見。
幕府要人の関与などを疑ったため、評定所で審理をすることとなり、結果、多数の農民の処刑もあった一方で、藩主頼錦は改易、老中、若年寄、大目付、勘定奉行などまでが関与していたことが明らかになり、彼らも改易などの厳しい処罰を受けた。
家重は宝暦11年(1761)6月に没し、増上寺に葬られる。
『徳川実紀』では、家重の評価として、言葉は少ないが、万機の事を、よく幕閣に任せたため、治世の16年は吉宗の延長とはいえ、平穏な社会が続いたとする。
つまり、吉宗政権をよく引き継いだ、守成の人として評価している。
どの史書においてもあまり良い評価がされていないが、史料批判に基づいてみる場合、悪く云われている君主に限って実際は名君であったケースも多いため、注意が必要。
徳川実紀 | 朝会の外にはおほく後宮(大奥)にのみおはしける。 |
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(花を生けて献上した大名に対し)凡草木はその花こそめづべけれ。うつはものをかざることはあるまじきなり。ことに奢侈をひらくもとひとなるべし | |
あぶらをいみて用ひられねば御髪も常に乱れ給ひ。 | |
日本風俗図誌 | 家重は女性に対して人並みはずれた欲情をもっており、また強い酒を大変好んでいたので、彼は健康をすっかり損なってしまっていた |
家重はもはや、その話す言葉が他人にはわからないようになり、ただ合図のようなものでしか自分のいおうとしていることを人に伝えることができなくなった | |
続三王外記 | 家重ではなく次男の田安宗武を将軍の後嗣にすべきではないか |