文明社会に欠かせないお金・貨幣。
日本列島で貨幣が流通して以来、人々はお金に翻弄されてきた。
この「貨幣」は一体、いつごろ誕生し、どのように発展して来たのか。
現代では貨幣は、世界的にも人々の暮らしになくてはならないものとなった。
その形態や制度の変化を見ていくと、時代の移り代わりが見えてくる。
富本銭
飛鳥池遺跡の発掘調査により、多数の富本銭や鋳型などが出土し、ここにあった工房で富本銭が鋳造されていたことが明らかとなった。富本銭は『日本書紀』天武12(683)年条にある「今より以後、必ず銅銭を用いよ」の銅銭にあたる可能性が高く、和同開珎(708年発行)をしのぐ国内最古の鋳造貨幣である。(『山川 詳説日本史図録』より引用)
物々交換が便利に、スムーズに行えるよう、交換の媒体として使用されたのが物品貨幣であり、稲や布、塩などが使用された。
また、関西で出土している無文銀銭(むもんぎんせん)も、富本銭や和同開珎以前に造られた貨幣であり、物品貨幣の様に使われたという説がある。
朝廷は、中国の貨幣制度をモデルにして貨幣の発行を始めた。
250年の間に、「和同開珎(わどうかいちん)」から「乾元大宝(けんげんたいほう)」まで、金銭1種、銀銭2種、銅銭12種が発行された。
特にこの銅銭については「皇朝十二銭」と呼ばれる。
あわせて、蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)、蓄銭禁止令などを発したり、貨幣による納税を命じたりする事で、貨幣の流通を活発にしようとした。
しかし、その制度は不安定で、朝廷による貨幣の発行は中止される事になる。
日本で始まった貨幣の鋳造は、中国の貨幣制度を取り入れようとしたものだった。
貨幣の形の中国の開元通宝(かいげんつうほう)を見本にしており、外観がよく似ている。
初期の和同開珎や万年通宝(まんねんつうほう)、神功開宝(じんぐうかいほう)は直径25ミリ前後であった。
しかし、乾元大宝では下の写真の様に小さくなり、そのうえ銅の含有率も低く、質の悪い貨幣となっていた。
国内で貨幣の鋳造が行われなくなり、中国からの渡来銭が使用されるようになる。
その多くは北宋の貨幣で、輸入品として日本に持ち込まれた。
国が発行する貨幣が無くなっても、市井を生きる人々にとっては、既になくてはならない便利なモノであったのだ。
また、渡来銭を真似た私鋳銭も一部の地域で出回った。
品質に差が在った為、悪銭の受け取りを拒んだり、「一枚=一文」の原則を破って、良銭と悪銭の価値に差を付けた取引が起こったりもした。
このような状況を改善し、貨幣の流通をスムーズにするため、度々、撰銭令が発布された。
各地の大名が鉱山開発に力を入れ、金銀が大量に生産されるようになった。
これ以降、金銀は日本を代表する輸出品にもなり、海外へ大量に流出し始める。
天正大判(てんしょうおおばん)は現存する金貨の中では世界最大級。
重さは165グラム。
ただ、流通させる為の貨幣ではなく、褒美などとして豊臣秀吉から与えられ、秀吉の権力を示す為のモノであった。
備蓄用に造られたと伝えられる。
このサイズで375グラム。
中央に桐の花、周囲に菊の模様が押された美しい分銅金。
天下統一を果たした徳川家康は、それまでの貨幣制度を継承しつつ、幕府による新たな貨幣制度を完成させた。
これにより、幕府による経済面からの国内統治も確かなモノとなった。
金・銀・銅の3種類の素材の貨幣が流通した事から「三貨制度」といわれる。
3種類はそれぞれに価値体系が決まっており、単位も異なった。
南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)は江戸時代後半に金貨の補助通貨として流通した計数銀貨。
丁銀や豆板銀の様に重さによって交換した秤量銀貨と比べて使い勝手が良かった為、流通量が増えていった。
享保小判(きょうほうこばん)は江戸時代の小判の中で金含有率が最も高った小判。
万延小判(まんえんこばん)は金の割合がとても低く、小判自体も大変小さい
江戸時代の小判の重量や品質は一定ではなかった。
幕府の財政難や貨幣の素材不足に対応して、ときには質の悪い小判を鋳造した。
幕末には、3.3グラムという小さな小判が鋳造された。
金の含有率を1.9グラム程度にまで落とした小判だったが、これは、金の海外流出を防ぐ為の対策だった。
紐を通して流通させやすくした百文緡(ざし)。
実際には100枚には足りずに、97枚しかない。
このまま使えば名目通り100文だが、紐を外してバラバラに使えば97文分。
東日本は金、西日本は銀の産出地が多かった事から、主に東日本では金貨、西日本では銀貨が流通した。
そのため「東の金遣い、西の銀遣い」と言われた。
東西の間を仲介したり、三貨間を交換したりする必要から両替商が発達したのも江戸時代である。
※両替レートの相場例「銭(銅)4000文=銀50〜60匁=金1両(小判1枚)」
金銀の貨幣は、金座、銀座で鋳造された。
いずれも幕府から鋳造を請け負った組織であり、実際に働く人々は町人であった。
現在、日本銀行本店がある場所(東京・日本橋)にはかつての金座があり、繁華街の東京・銀座は、1612〜1800年に銀座が在った場所だ。
また、銀座は銅貨鋳造の必要に応じて開設された。
江戸時代から明治へ新しい時代に入ると、あらゆる面で欧米に倣った近代化が進められた。
貨幣制度も「円」の時代へ進む。
そして戦後、日本は経済大国への道を進んでいく。
今では「円」を含めた世界の様々な通貨が瞬時に、世界中を飛び回る時代となった。
下の図は20円金貨、50銭銀貨、1厘銅貨だ。
新貨条例では、金1.5グラム=1円とし、その100分の1を「銭」、銭の10分の1を「厘」と制定し、金銀銅貨が発行された。
1885年に日本銀行券が発行されて以来、16人の肖像画が紙幣に描かれてきた。
そのうち国の指導者や政治家が11人を占め、1984年以降にようやく文化人が5人だけ登場している。
国の発展過程では、力のある政治家・指導者が国民の尊敬を集めていた為と思われる。
古代の偉人はとても人気があり、聖徳太子に次いで登場回数が多いのが和気 清麻呂(わけのきよまろ)と菅原道真である。
神話の人物として、1945年の千円札には日本武尊(やまとたけるのみこと)が描かれた。
しかし菅原道真や、武内宿禰(たけしうちのすくね)などの肖像画は戦後、GHQに「軍国主義的」として却下された。
太平洋戦争中の混乱期には、資金不足を補う為に、日本軍によって「軍票」が発行された。
通貨の代わりに使用されていたが、敗戦後は全く価値のないモノになった。
2000年に発効された2千円札は、42年ぶりの新額面紙幣であった。
景気回復も期待されたが、あまり出回らず、2003年を最後に印刷されていない。