徳川吉宗(1684〜1751年)は江戸幕府の8代将軍である。
紀伊徳川藩主の四男で、将軍候補者が相次いで亡くなった為に将軍に就任した。
財政再建を中心に置いた享保の改革を断行した。
約30年を費やし、江戸時代の3大改革で最も成功した。
米価対策に心を砕き「米将軍」と呼ばれた。
吉宗が将軍に就任した時、幕政は5代将軍の綱吉の失政の影響がなお残る状態であった。
吉宗の前の2代が是正に取り組んだが、どちらも就任期間が短く、効果を出すことが出来なかった。
これに対し吉宗は、就任直後から、財政再建と行政改革に着手した。
約30年間の治世のすべてを改革に費やしたのだ。
御三家から将軍に入った吉宗は、協力を得るために譜代を優遇する姿勢を執った。
しかしその実、新たに御傍御用取次(おそばごようとりつぎ)を設け、紀伊以来の側近の加納久道(かのうひさみち)を政策決定に関与させている。
さらに、足高の制を設けて、三奉行や大目付以下の実務担当官僚に思い切った人材を登用している。
この結果、行政機構を改革の手足として、自分の意向通りに動かすことが出来た。
改革が一定の成果を上げた理由として、吉宗が大らかな政策で、改革が理想主義に走らなかった事がいえる。
例えば、財政再建で新田開発が必要となれば、日本橋に高札を出して商人の金の力を求めた。
また財政難で旗本以下の俸禄が出せないとなると、諸大名に領地の石高に応じて米を献上させ(上米)、その見返りに参勤交代の条件を緩和した。
このほかの財政再建策として、財政に直結する米価相場にしばしば介入したため、「米将軍」と呼ばれた。
吉宗の民政は、実質的な増税である定免法、貸惜紛争への不関与を明言した相対済し令など、幕政の正常化を優先し、庶民の生活を後回しにするものも多かった。
しかし、目安箱を設けて民間からの献策を受け入れるなどの柔軟性があった。
享保の改革が一定の成果を上げた為、以後の改革では模範とみなされるようになった。