4代徳川家綱

4代将軍 徳川家綱

優秀な家臣に支えられた「左様せい様」

文治政治への転換により幕政が安定

徳川家綱(いえつな)(生没1641-1680)は江戸幕府4代将軍(在職1651-1680)。3代家光の長男として江戸城本丸に生まれ、幼名は竹千代。乳母は矢島局と三沢局。文治政治への転換により幕政は安定、江戸全盛期の治世を築いた。

綱吉以降、将軍宣下が江戸で行われる慣例に

家康から家光まで3代の将軍宣下は京都南郊の伏見城で行われていたが、家綱の場合はまだ少年だったため、江戸城で将軍宣下の儀式が行われた。これ以降、将軍宣下は江戸で行われることが慣例となった。

実子に恵まれず、次期5代将軍は弟が就任

家綱は17歳の時に、伏見宮貞清親王の娘浅宮顕子と結婚。20年連れ添ったが、2人の間に子は生まれなかった。側室との間にも子は恵まれず、そのため、家綱死後は弟に将軍職が受け継がれた。

目次

家綱の関連年表

出来事
寛永18年(1641) 家光の長男として誕生
慶安4年(1651) 家光が死去し、家綱が11歳で第4代将軍に就任する。慶安事件(由井正雪の乱)が起きる。事件の原因となった牢人対策のため、大名の末期養子を緩和する
慶安5年(1652) 戸次庄左衛門による牢人騒動、承応事件が起きる
明暦3年(1657) 江戸三大大火の一つ、明暦の大火(振袖火事)が起き、江戸城天守を含む江戸の町の大半が焼失する。しかし復興事業とともに都市改造を行い、後の百万都市江戸の基盤がつくられる
万治元年(1658) 江戸に定火消を設置
寛文3年(1663) 「武家諸法度」を発布し、殉死を禁止する
寛文4年(1664) 初めて全大名に、大名の土地と領民の支配を認める「領知宛行状」を発給する
寛文5年(1665) 大名の証人(人質)を廃止し、武断政治から文治政治に移行。「諸宗寺院法度」・「諸社禰宜神主法度」などの諸法度を整備
ェ文6年(1666) 酒井忠清が大老に就任する
寛文10年(1670) 林鵞峰らに命じた、歴史書『本朝通鑑』が完成する
寛文11年(1671) キリスト教禁制を徹底させるため、諸代官に「宗門改帳」の作成を命じる。豪商・河村瑞賢が東回り航路を開き、流通・経済が発展
延宝元年(1673) 農民の土地の分割を制限する「分地制限令」を出し、年貢を納めさせることで大名や幕府の財政の安定を図る
延宝8年(1680) 病に倒れ危篤状態になる。子がいなかったため、末弟の館林藩主・徳川綱吉を養子にして将軍後継とし、直後に死去。40歳

生まれながらの将軍だった家綱

11歳で将軍となり、在職期間は約30年に及ぶ

父に3代将軍・家光、弟に5代将軍・綱吉を持つ家綱であるが、彼はリーダーシップを発揮したとは言い難い将軍であった。だが、11歳で将軍の座に就いたとはいえ、在職期間は約30年にも及んだ。
家光や綱吉とほぼ同じ長さであり、その治世は軽視できない。将軍親政とは別の政治スタイルを定着させた将軍として評価される。

家光の時に初めて「長子相続」とされ家綱が世継ぎに

一般的に3代・家光は「生まれながらの将軍」と認識されることが多いようだが、家光は生まれながらの将軍とは違った。忠長(ただなが:家光の同母弟)という強力なライバルがおり、むしろ弟忠長の方が将軍の座に近かった。
だが、初代将軍の家康が長子相続の原則のもと長男・家光を世継ぎとするよう息子の2代将軍・秀忠に命じたことで、将軍の座に就くことができた。
この原則のもと、家光の長男として生まれた家綱は自動的に世継ぎと定められたのであり、家綱こそが生まれながらの将軍の第一号だった。

家光の死を受けて、11歳で4代将軍に

老中となった松平信綱・酒井忠勝の補佐を受ける

慶安4年(1651)4月、幕府の礎を固めた3代将軍・家光は将軍在職のまま病死する。
これを受けて家綱は4代将軍の座に就いたが、この時はまだ11歳であり、みずから政務を執ることは難しかった。
そのため、家光の側近から老中に累進した松平信綱や酒井忠勝の補佐を受けながら、政務を執った。

この頃から重臣たち主導で幕府が運営されていく

家光の異母弟で家綱には叔父にあたる保科正之も、後には将軍補佐役として幕府政治に関与した。
家光を支えた重臣たち主導のもと、幕府は運営されたのであり、将軍親政ではない政治スタイルが定着する背景にもなった。

早くも幕府転覆を狙った事件が勃発

由井正雪の乱〜牢人たちが幕府転覆をはかる

将軍の代替りの裏では、牢人たちが幕府転覆をはかったと伝えられる大事件が起きる。同・慶安4年7月に勃発した慶安事件(由井正雪の乱)である。
幕府は権力基盤を強化する一環として容赦なく大名の改易を行っていたが、そのたびに仕える主家を失って路頭に迷う牢人が大勢生まれた。
よって、改易により生活苦に陥った牢人の不満を背景に、軍学者の由井正雪は牢人たちを糾合して幕府の転覆をはかったが、事前に漏れたことで、挙兵は未遂に終わる。

乱以降、幕府は改易に慎重になる

これに衝撃を受けた幕府は、事件の原因となった牢人の増大を食い止めるため、大名の改易に慎重になる。
余程の失政や問題がない限り、大名家の存続をはかるようになった。

大名の末期養子を許可する方針に転換

具体的には末期養子の禁を緩和することで改易を極力防ごうとした。跡継ぎのいない大名が、臨終の際に養子を届け出ることを認めたのである。
従来、幕府は跡継ぎのいない大名が臨終の際に養子を取ること(末期養子、急養子)は認めていなかった。だが、慶安事件直後の同年12月に、50才未満の大名に対しては末期養子を許可する。

末期養子の禁を緩和により幕政が安定化

末期養子の禁を緩和した結果、跡継ぎがいないとの理由で改易される大名は激減。その分牢人の数も減り、幕府が改易による社会不安に悩まされることはほとんどなくなった。

明暦の大火〜江戸の6割が焼失

江戸時代最大の大火【明暦の大火】が発生

家光を支えた重臣で構成された老中をトップとする統治機構に政務を任せた家綱だったが、将軍の座に就いてから6年後の明暦3年(1657)に再び大事件に直面する。江戸時代最大の大火となった明暦の大火に見舞われた。

一日目、火の手は二手に分かれ広範囲を焼き尽くす

明暦3年の正月18日の午後1時頃、本郷丸山の本妙寺から出火した火は西北風にあおられ本郷から湯島一帯を焼き尽くし、駿河台下の大名屋敷を焼き払った。
その後、火の手は二手に分かれ、一手は南下して八丁堀から霊岸島に至る下町一帯を焼け野原とした。もう一手は西風にあおられ、隅田川までの地域を焼き尽くした。

焼死者も10万人、江戸の6割が焼失、江戸城まで消失

翌19日未明に火事はいったんは収まったものの、午前11時に小石川から再び出火する。
火は北風にあおられ、ついに江戸城にも火の手は及んだ。本丸御殿と天守は焼け落ち、二の丸、三の丸もほとんど焼失した。本丸にいた家綱は西の丸に移っている。
この大火により、江戸の6割が焼失し、焼死者も10万人を超えたとされる。

火災からの復興と城下町の拡張

大火を教訓に江戸の防災都市化が進む

江戸の過半を焼き払っただけでなく江戸城までも焼失という未曽有の災禍に強い衝撃を受けた幕府は、江戸城の再建とともに、江戸の防災都市化を強力に推し進める。
江戸城への延焼を防ぐため、大名屋敷をはじめとする武家屋敷、町屋敷、そして寺社までも江戸郊外へ強制移転させた。
これは江戸城下拡大の呼び水となり、百万都市への環境整備としての役割を果たした。

火の用心が幕政の安定にも寄与していく

明暦の大火を契機に、将軍のお膝元たる江戸の防災都市化が進んだことは社会不安の抑止にもつながり、幕政の安定にも寄与したのである。
>> 江戸の街の火災対策

武断政治から文治政治へ

文治政治〜武力ではなく法令制度による統治

家綱の時代に入ると、幕府は泰平の世を背景に武断政治から文治政治へと移行していく。
武力をもって抑え付けずとも、文治政治、すなわち法令や制度の整備だけで統治は可能になったとみなされたからである。

幕藩体制の礎が家綱の時代に確立

江戸時代は、幕藩体制という幕府と藩による共同統治が行われた時代だった。
諸藩もそうした方針に従わせることで、幕府は幕藩体制の安定に成功していく。よって、この時期には諸藩でも法令や制度の整備が進み、武力に頼らない統治が可能となった。

家綱が将軍親政に拘らなかった事が結果的にプラスに

家綱が将軍親政という政治スタイルを取らず、老中をトップとする統治機構に政務を任せたのは、元来、病弱だったことも大きな理由であった。
それゆえ、リーダーシップを発揮することも難しかったわけだが、家綱が老中たちの合議を重んじるスタンスを取ったことで専制政治の弊害に陥らず、幕政の安定に成功したことは見逃せない。

家綱個人、武芸より文事に関心を向けていた

そうした政治スタンスを取ったため、個性もあまり感じられない将軍だったが、その趣味は武芸よりも文事に向けられた。絵画や茶の湯、幸若舞を好んだと伝えられる。

跡継ぎを残さぬまま家綱死去

子供は男の子も女の子も悲しい結果に

側室のお振・お満流は家綱の子を懐妊したが、死産または流産であった。
その後、家綱には30半ばに至っても男子がなかったため将軍継嗣問題が憂慮されるが、結局、事態を好転させることはかなわなかった。

異母弟・綱吉を継嗣とし、40歳にして家綱が死去

延宝8年(1680年)5月初旬に病に倒れ、危篤状態に陥った家綱は、堀田正俊の勧めを受けて末弟の館林藩主・松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とし、直後の5月8日に死去した。享年40。
死因は未詳だが、急性の病気(心臓発作など)とみられている。

家綱の死により直系世襲の形が崩れる

生まれながらの将軍であった家綱であったが、その死により、徳川将軍家の直系の子が将軍職を世襲する形は崩れた。

出典・参考資料(文献)

『No.155 歴史人2023年11月号 徳川15代将軍ランキング』ABCアーク


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