出典『No.155 歴史人2023年11月号 徳川15代将軍ランキング』ABCアーク
尾張、紀伊(紀州)、水戸といえば「徳川御三家」である。
親藩の中でも最高位にあり、徳川姓を名乗る事や、三つ葉葵の家紋の使用が認められていた。
人気時代劇「水戸黄門」で「この紋所が目に入らぬか」という言葉を繰り出せるのも、黄門さまが水戸家の二代目、水戸藩主・徳川光圀だったからだ。
この御三家、徳川家を存続させる為、徳川家康によって設立され、将軍家の後嗣が途絶えた時には、跡継ぎを出す事になっていた。
実際、八代将軍 徳川吉宗は紀州家の出身で、その後、14代 家茂までは紀州家の血筋である。
ただし、家康には18人も子供がおり、男子だけでも、2代将軍となった秀忠を除いて10人もいたのだ。
にも拘らず、尾張62万石を与えられたのは九男の義直で、紀州55万石は十男の頼宣、水戸25万石は十一男の頼房という末子らであった。
家康が、末の子たちに大きな領地を与えたのは、上の子供たちを様々な不幸が襲った為、徳川家の行く末に相当の危機感を持ったからだろうと考えらえている。
まず、長男の信康は、遠州の二俣城で自刃している。
家康が織田信長と同盟関係にあった頃、宿敵であった武田氏と内通の疑われてしまった為だ。(信長の命による自刃、家康との対立による自刃など諸説ある)
次に、次男の秀康だが、10歳の頃に、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の養子となり、その後、結城氏の跡を継ぎ、徳川家から離れた。
三男の秀忠が将軍の地位を継いだ背景には、そんな事情があったのだ。
また、尾張藩主の四男忠吉と、水戸藩主だった五男信吉は、若くして亡くなっている。
さらに、養子に出していた六男忠輝は、乱行の果てに改易配流となり、七男松千代、八男仙千代も幼いころに亡くなってしまう。
つまり、八男までで、徳川家内で、無事に成長したのは、秀忠一人だったのだ。
そこで、四男の死後、九男義直に尾張家を受け継がせ、五男の死後には、一旦、十男頼宣に水戸藩主を継がせた。
その後、頼宣は転封されて紀州藩主となり、さらに十一男頼房が水戸藩主を受け継ぐ事になった。
これにより、後の御三家が揃ったというわけである。
江戸初期に御三家といえば、徳川宗家に尾張徳川家、紀伊徳川家の事で、水戸家は含まれていなかった。
また、尾張家、紀伊家に駿河徳川家を加えて、御三家と呼ぶ事もあり、やはり水戸家は含まれていなかった。
さらに、朝廷から与えられる官位も、尾張家と紀伊家が従二位権大納言だったのに対して、水戸家は従三位権中納言だった。
※従二位の方が、従三位より位が高い
その水戸家が御三家に加えられる事になったのは、徳川の分家が次々と消滅したからである。
当初、徳川宗家の分家には、尾張家、紀伊家、水戸家の他に、駿河家と三代家光の子の甲府徳川家と館林徳川家があった。
ところが、駿河家は、忠長が改易後に自害して消滅した。
舘林家は綱吉が五代将軍になり、甲府家も六代将軍の家宣を出して、ともに徳川宗家に吸収される。
こうして、三つの分家が無くなり、水戸家が御三家に加えられたのだ。
そのため、水戸家は御三家の中では、やや格下と考えられ、将軍の後嗣が途絶えた場合も、後継者を出すのは、尾張家か紀伊家と見られていた。
例えば、五代綱吉は、世子の徳松が亡くなると、娘の鶴姫の婿で、紀伊家の嫡男綱教(つなのり)を養子に迎えようと考えたといわれる。
また、六代家宣は、世子家継が幼少のとき、尾張家の当主吉通を養子に迎えるかどうか議論させたが、水戸家の者を後継にしようとは考えなかったという。
実際は、水戸家出身の徳川将軍は、幕末の動乱期に将軍となった十五代 徳川慶喜のみであった。
なお、慶喜は、八代吉宗の代に出来た御三卿のひとつである一橋家の養子であった。