徳川家定は江戸幕府13代将軍(在任1853-1858)(生没1824-1858)。12代家慶の四男。黒船来航の年に就任、1854年に日米和親条約に調印。幕政は老中の阿部正弘と堀田正睦が主導した。米国総領事タウンゼント・ハリスを江戸城で引見するなど、外交問題にさらされる。幕府内では南紀派と一橋派による後継争い勃発した。
年 | 出来事 |
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文政7年(1824) | 4月8日、徳川家慶の四男として誕生 |
天保12年(1841) | 11月21日、最初の正室である鷹司任子と結婚するが、任子は翌年6月、疱瘡のため死去 |
嘉永2年(1849) | 11月22日、一条忠良の十四女・秀子と婚姻するが秀子は翌年死去 |
嘉永6年(1853) | 6月22日、父の第12代将軍家慶が病死 |
10月23日、家定が第13代将軍に就任 | |
安政元年(1854) | 1月16日、ペリーが再来日。同年3月に日米和親条約を結ぶ |
安政3年(1856) | 7月21日、初代駐日公使としてタウンゼント・ハリスが下田に入港 |
11月、家定が篤姫を御台所に迎える | |
安政4年(1857) | この頃より継嗣問題が勃発。南紀派と一橋派の対立があらわに |
10月21日、家定、タウンゼント・ハリスと江戸城にて引見 | |
安政5年(1858) | 1月8日、堀田正睦が勅許奏請のため上洛も条約勅許獲得に失敗 |
4月23日、井伊直弼が大老に就任 | |
6月19日、日米修好通商条約に勅許を待たずに調印。後の火種に | |
6月24日、徳川斉昭らが不時登城を冒し慶喜の将軍継嗣と松平慶永の大老就任を要求 | |
6月25日、諸大名を招集し従弟である慶福(後の家茂)を将軍継嗣にする意向を伝える。また、押しかけ登城をした徳川斉昭ら4名の処分を発表。安政の大獄の始まり | |
7月6日、家定が35歳で死去 | |
7月16日、島津斉彬が死去 | |
8月8日、戊午の密勅。孝明天皇が水戸藩および長州藩に幕政改革を指示 | |
安政6年(1859) | 井伊直弼が徳川斉昭に蟄居を命じる。斉昭は蟄居が解けぬまま翌年死去 |
安政7年(1860) | 3月3日、桜田門外の変で井伊直弼が殺害される。安政の大獄は収束 |
江戸時代の晩期に就任した3人の将軍(家定(いえさだ)、家茂(いえもち)、慶喜(よしのぶ))は共通して、【外圧】に立ち向かうことが求められた。
米国からの黒船・ペリー来航をきっかけに、日本に「開国」を求める圧力(外圧と呼ばれた)が格段に強まった。そのため、その外圧に挑む為にリーダーシップを発揮して国をまとめることができる「政治君主」でなければならなかった。
それまでの将軍は、江戸城の奥深くにいて、自らが先頭に立って、国政を担当する「政治君主」でなくてもよかった。政治的なことは老中に任せていればよかったからだ。
ところが、ペリー来航後に第13代将軍の座に就いた家定には、それが許されなかった。
家定の実父であった第12代将軍・家慶(いえよし)は、父・家斉(いえなり)の55人と比べると少ないが、家定をふくめ14男13女の子供を儲けた。が、皮肉なことに、これだけの子沢山でありながら、20歳以上まで生きたのは家定だけであった。
そのため、ペリー来航騒動のさなか、家慶が息を引き取る(嘉永6年6月22日)と病弱で癇癪持ちであった家定が跡を継ぐことになった。
家定の兄妹姉妹が早死にしたのには、おそらく誕生してからずっと、おしろい鉛でつくられた白粉の付着した乳を飲んで育った(すなわち鉛毒におかされた)ことが大きく関わったであろう。
また、あまりにも大事に育てられたため、普通の子供のように、太陽の下を自由に動き回るような生活とはほぼ無縁だったことも、影響したと思われる。
「凡庸だ暗愚だ」だったと昔から言われ続けてきた家定将軍の実際の姿だが、これは実態とはかなり異なる。側に控えていた関係者の証言等によると、普段は温和で、存外、聡明で思いやり深い人物であったらしい。
家定は、幼い頃から障害(首を振る癖があった)を抱え、かつ幼少期に重い疱瘡(ほうそう)にかかったため、その後遺症が顔面に残った(痘痕:あばた)ため、自身の容貌にどうやら自信を持てなかったらしい。
そしてこのことが、美男であった一橋慶喜に対して好意的な感情をもてない一因となったともされる。(父・家慶が幼い慶喜をとにかく可愛がったことへの反発だったとも)
なお、不思議なことに島津家から御台所(妻)として迎えた篤姫(あつひめ)との関係については、ほとんどエピソードらしいものは伝わっていない。
そうした中にあって、篤姫が慶喜に対して、終始、好意的な素振を見せなかったのは、慶喜嫌いの夫である家定の影響もあったのだろうか。
家定は病弱で、障害を抱えていたものの、平穏な時代状況であったなら、優秀な将軍とまではいかなくても、まずは合格点を与えられる将軍として生きられたと思われる。
しかし、父・家慶の晩年から、激動の時代に日本は突入したため、彼の運命も大きく変わることになる。
嘉永6年6月に、ペリー一行が浦賀沖に巨大な軍艦とともに姿を現わし、強引に開国の要求を日本側に突き付けた直後に父が死去したことが、家定の運命を決めることになった。
これ以上ないほどに高まった対外危機によって毅然として難題に立ち向かえる将軍の登場が求められた時、家定はこうした条件に合わない将軍だと見なされたのである。
以後、紀州和歌山藩主であった【徳川慶福(14代家茂)】と一橋家の当主であった【一橋慶喜(15代慶喜)】のいずれを将軍に担ぐかをめぐる闘争が展開されることになった。
慶福(14代家茂)を次期将軍に推すグループは南紀派とよばれた。
この一派に属した主たる面々は、幕政の諮問に預かる家柄だった溜之間詰の諸大名であった。
そして、この南紀派は、慶福が家定との血のつながりが濃く、かつ徳川吉宗の直系であることを重視した。
慶喜を推すグループは一橋派とよばれた。この一派の中心メンバーとなったのは弘化期(1844〜48)に欧米列強の極東地域への進出の動きに懸念を懐き、たがいに情報交換することで結びついた親藩や外様藩の有力者であった。
水戸藩、薩摩藩、越前藩、佐賀藩のそれぞれ藩主であった徳川斉昭・島津斉彬、松平春嶽、鍋島直正らである。
これらの諸藩は、いずれも幕政に参与できない藩であった。彼らが、将軍家とは遠い水戸家の出身である慶喜を推奨したのには、国政への発言権を獲得したいとの思惑が隠されていたといわれる。
南紀派と一橋派、両派の抗争は、安政3年(1856)に通商条約を締結するために来日した初代日本総領事のタウンゼント・ハリスが江戸城に登り、将軍に謁見することが決まった時点で急浮上する。
この際、英明な継嗣を得て将軍の名代をさせようと一橋派が画策したことによった(畑尚子『幕末の大奥』)。
次いで両派の抗争はアメリカとの間に通商条約を締結するかどうかの問題をめぐっても争われ、最終的には、大老に就任した井伊直弼の政権の下、6月19日、勅許を待たずに、日米修好通商条約が調印されることになる。
併せて慶福を将軍継嗣とすることが決定をみる。
慶福の将軍就任は、将軍・家定の決断によって決着がついた。
通常、慶福に次期将軍の座が約束されたのには、大老に就任した井伊直弼の働きが最も大きく与ったとされる。
しかし国のありようを最終的に決定するのは、最高権力者だった将軍であり、たとえ大老といえ臣下だった直弼ではなかった。(ただし、血統を重視した直弼は、当初から慶福には好意的ではあった)
慶福が次期将軍に決まった時、徳川斉昭が井伊政権の決定に抗議するために不時登城(登城日ではない日に登城)したが(安政5年6月25日)、これに対し、家定が激怒したという。
それは、斉昭が「今日は直弼に腹を切らせねば退出しない」と声高に直弼を罵ったとの情報をうけてのことであった。
家定が、老中らの生殺与奪権は将軍にのみに属すると考えていたが故の激怒であった。(山内昌之『将軍の世紀』下巻)。
ついで、水戸藩関係者を中心とする一橋派の面々が朝廷(天皇)の力を借りて、家定および井伊政権が決定した方針を覆そうとした(事実、天皇の「密勅」がこのあと出された)ため、井伊政権による一橋派に対する大弾圧(安政の大獄)が引き起こされることになる。
しかし、安政5年(1858)7月6日、家定は35歳で死去する。
有名な吉田松陰や橋本左内の処刑よりも、水戸藩関係者の処刑が早い段階でなされたことから、井伊政権が真の敵だと見なしたのが水戸藩関係者だったことがわかる。
事実、このあと「密勅」の降下は徳川斉昭の指令によると見た井伊政権は、証拠を見つけ出そうと躍起になった。
だが、証拠は見つけ出せなかった。斉昭の指令など初めからなかったから、当然の結果であった。