桜田門外の変は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に大老・井伊直弼が暗殺された事件。江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)にて、江戸幕府の行事のひとつである上巳の節句(桃の節句)のため江戸城に登城しようとする彦根藩の行列を、水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が襲撃、その中に井伊直弼がいた。白昼堂々と時の最高権力者を襲うという幕末最大の事件である桜田門外の変は、この後の政治の流れを大きく変えた。
大名たちが江戸城の登城口として使用できる江戸城の門は、大手門と桜田門が一般的であった。幕閣を務める大名は城の近くに屋敷を構えており大老を務める井伊家は桜田門の目の前に屋敷があった。
安政7年(1860)3月3日の早朝、襲撃犯18名は愛宕神社に集合し、桜田門に向う。
大雪であったが、武鑑を片手に大名行列を見物する庶民が多数おり、それに混じって待ち伏せした。
午前9時ころ、大老・井伊直弼の行列は、桜田門までわずか400m程度の彦根藩上屋敷を出発した。
最初に、森五六郎が駕籠訴(かごそ:行列を待ち受け訴状を差し出す人のこと)を装って、行列を警備する藩士に近づき、制止されようとした刹那に斬り掛かった。
森が護衛の注意を前方に引きつけた上で、黒澤忠三郎が合図のピストルを駕籠めがけて発射した。
これを合図にして、浪士本隊が全方向の駕籠への抜刀襲撃を開始し、わずか数分の間に直弼は討たれた。
事件から約1か月後、鳥取藩士の安達清風(あだちせいふう)が逃亡中の関鉄之助(せきてつのすけ)から、直に聞き取った生々しい情景が日記に記録されている。
日記によると襲撃の際、合図のピストルを撃つと護衛の者たちは直弼の乗った駕籠を放して退いた。
そこで、駕籠の戸を開けたところ、ピストルの弾丸が直弼の胸に命中、すでに籠の中で絶命していた。
そこで、直弼を引き出してズタズタに切りつけて、首を薩摩藩出身の有村次左衛門が討ち取ったと書かれている。
一般的に直弼は最初の弾丸が直撃した時点で【瀕死であった】とされることが多いが、直弼が即死だったなら、通説を否定する事実となる。
この時に使用されたピストルは、ペリー艦隊が嘉永7年(1854)に再度来航した際、将軍家や幕閣に贈呈した最新のコルト型(コルトM1851)で、徳川斉昭が入手して水戸藩内で模倣して製造した一品であった。
徳川斉昭は直弼によって弾圧されていた為、一矢報いられた格好となった。
大老襲撃が成功した要因は、当日の天候が大きな影響を与えたと考えられる。
朝から大雪だったため、行列の武士たちは刀に柄袋を被せており、容易に刀を抜けなかった。
井伊側には油断が生じていた。彦根藩上屋敷跡から桜田門までわずかな距離しかなく、しかも、その行列は藩士26人を含む総勢64人であり、警護は万全と思われた。
事前に襲撃の注進も届いていたが、それを重視した形跡は見られない。
実際の襲撃に加わった16名のうち、稲田重蔵が闘死、山口辰之介ら4名が自刃、佐野竹之介ら8名が自訴した。
広木松之介ら3名は現場を脱して、後方部隊であった関鉄之介らとともに、薩摩藩勢力と合力するために京都を目指したが、多くは捕縛・斬首された。
直弼の死は秘匿され、公式には急病を発して闘病し、急遽、相続願いが提出・受理された後に病死とされた。
譜代筆頭の井伊家の断絶を防ぎ、彦根藩と水戸藩のこれ以降の衝突を防ぐための処置であったが、大老・井伊直弼を失った幕府の権威失墜は被りがたいものになった。
桜田門外の変は、幕末維新期に起こった数多い暗殺事件の中で、唯一といっていいほど政局に重大な影響を与えた大事件であった。
白昼堂々、江戸城から至近の場所で大老が暗殺されるなど、前代未聞のできごとであり、幕末の動乱が本格化、確実に明治維新を早めたといえる、日本史上でも稀にみる政変であった。
大老・井伊直弼は安政の大獄によって、幕府に抗する勢力に大弾圧を加え、その矛先は朝廷にも向かっていした。
孝明天皇の側近である青蓮院宮(しょうれんいんのみや:中川宮)・近衛忠熙(ただひろ)らが斥けられ、幕府に逆らえない状態に追い込まれた。
直弼の暗殺後、幕府権威の失墜は甚大で、井伊政権を引き継いだ安藤信正・久世広周の両老中は公武合体に大きく舵を切った。
その最大の施策は和宮降嫁であり、その実現によって、天皇権威を後ろ盾に幕府勢威の再浮上を企図した。
桜田門外の変は、幕府と諸藩の関係にも変化をもたらした。
文久期(1861〜1864)に入ると、長州藩は航海遠略策を引っさげて朝幕間の関係改善に尽力した。
しかし、坂下門外の変によって、長州藩に信頼を寄せた老中・安藤が失脚したことを契機に失敗に帰した。(老中・安藤は坂下門外で襲われるが、直弼と違い無事に逃げ切った事で、逃げた姿が武士らしくないと糾弾されて罷免された)
薩摩藩は藩主の実父で最高権力者の島津久光の率兵上京が実行され、幕末の舞台は江戸から京都に移行し、朝廷の権威が急激に浮上した。
西国雄藩の中央政局への介入が始まり、尊王志士が息を吹き返して王政復古を志向し、幕府への対決姿勢を強めた。
島津久光は幕政に参画するため、一橋慶喜と松平春嶽の復権を図って成功した。
そのため、慶喜・春嶽政権が成立し、参勤交代の緩和を図るなどの文久の改革が実行され、より一層の公武合体が図られた。
井伊直弼によって排斥された、一橋派の復権である。
桜田門外の変の実行主体であった【水戸藩の尊王攘夷派(天狗党)】は、万延元年(1860)7月に長州藩の尊王攘夷派と【成破の盟約】を結び、水戸藩が破(破壊運動)、長州藩が成(事後収拾)にあたることを約束したが、その後の進展はなかった。
一方で、文久元年(1861)以降、第一次東禅寺事件・坂下門外の変・天狗党の乱などを主導した。
しかし、天狗党は対抗勢力の書生派と政争を繰り返し、水戸藩そのものの没落をもたらした。
慶喜・春嶽政権によって、彦根藩は直弼の幕政を叱責され、石高が30万石から20万石に減封となり、5万石の預地も没収された。
加えて、京都守護の家職を奪われるなど、厳しい処分を受けることになった。
桜田門外の変は、特に朝廷と幕府の関係を一変させ、結果として、幕府の命脈を一気に縮めてしまった大事件であった。
桜田門外の変の襲撃者18名のうち、闘死・自刃・自訴以外の水戸浪士は、襲撃そのものには加わらず、現場総指揮にあたった関鉄之介と検視見届役を務めた岡部三十郎、襲撃現場を脱した広木松之介・海後磋磯之介(かいごさきのすけ)・増子金八の5人であった。
変の首謀者である関鉄之介は、薩摩藩勢力と合力するために京都に向かったが果たせず、厳しい幕吏の探索をかいくぐって近畿・四国の各地を逃亡した。 そして、薩摩に潜入を試みたものの入国を拒絶され、これも果たせなかった。 その後、水戸藩に戻って袋田村や豪農の桜岡家などにかくまわれるが、そこらにも危険が迫り、さらに藩内を逃げまわった。 しかし、越後に逃亡後、雲母温泉(新潟県関川村)で捕らえられ、文久2年(1862)5月11日に小伝馬町牢屋で斬首された。
岡部三十郎は江戸で事前探索を実行し、直接襲撃には参加せず、検視見届役(見張り役)を務めた。 事件後は一時京都に滞在したが探索が厳しく、水戸に戻って久慈郡袋田や水戸城下に潜伏した。 文久元年(1861)に江戸で捕縛され、自訴した襲撃犯らとともに、小伝馬町牢屋で斬首された。
広木松之介は事件後に京都に向かったが、厳重な警戒網を突破できず、加賀から越後の各所に潜伏した。その後、関東に潜伏して鎌倉の上行寺で剃髪し、事件からちょうど3年目の文久2年(1862)3月3日、その墓地で自刃した。
増子金八は、逃亡して潜伏したまま生き延び、維新後まで生き延びた。増子は事件後、上京を試みたが警備が厳重であったために断念し、水戸に戻って各地に逃亡潜伏した。維新後は、長期間にわたって常陸石塚に滞留したが、事件については沈黙を貫き、明治14年(1881)に病没した。
海後嵯磯之介も逃亡潜伏を経て、維新後まで存命で、その後の人生は、劇的だった。現場を脱した海後は水戸藩内に潜伏した後、京都を目指して越後に潜入したが果たせず、文久3年(1863)に水戸に戻り、罪を許された。元治元年(1864)、天狗党の乱では書生派と戦闘に及んだが捕らえられ、関宿藩に預けられたものの、脱出に成功して潜伏を繰り返した。維新後には水戸藩士として復籍し、茨城県庁や警視庁へ勤務するなど、唯一、維新後も表立った足跡を残した。明治36年(1903)まで存命し、実行犯として襲撃の状況を記述した『春雪偉談』や『潜居中覚書』を残した。
井伊直弼が乗った駕籠に真っ先に斬りかかったが、その場で切り殺されてしまった。その場で亡くなった唯一の人物。
襲撃の時に指を切り落とされ、全身に傷を負い姫路藩酒井家の前まで来たところで進めなくなり喉をついて自害する。
井伊直弼暗殺後、薩摩藩士たちが京都で挙兵するはずだったが、薩摩藩は動かず、潜伏先の大坂で息子ともに自刃した。
龍野藩脇坂家に入り、その後に熊本藩細川家に移される。そこで求めに応じて当日の様子を描いた絵が伝えられている。文久元年(1861)7月26日に伝馬町獄舎で斬首された。
龍野藩脇坂家に蓮田市五郎らとともに入り、斬奸趣意書を手渡す。重傷を負いそれがもとでその日のうちに亡くなった。
龍野藩脇坂家に蓮田市五郎らとともに入り、斬奸趣意書を手渡す。のちに熊本藩細川家に移され、そこで死去。
腹を刺され、八代洲河岸まで来たところでカが尽きてしまい行動を共にしていた鯉渕要人の介錯により絶命した。
参加しないことになっていたが、襲撃に加わる。龍野藩脇坂家に入った後に、移された熊本藩細川家で亡くなる。
杉山弥一郎らと共に襲撃の時にけがを負い、熊本藩細川家に自首。文久元年(1851)7月27日に処刑された。
黒澤忠三郎、大関和七郎、森五六郎らとともに熊本藩細川家に自首。文久元年(1851)7月27日に処刑された。
兄の黒澤忠三郎ともに参陣。森五六郎らとともに熊本藩細川家に自首。文久元年(1851)7月27日に処刑された。
襲撃の当日は品川で暗殺の成功を知り、それを京都に伝えようとしたが、途中で捕縛され、江戸で刑死した。
井伊直弼の首を討ち取ったのは薩摩浪士の有村。指や喉、左目、背中などに傷を負い、三上藩遠藤家の屋敷で息絶えた。
彦根藩の事件後の状況は、取り潰しを免れて、万延4万元年(1860)4月2日に直弼の実子・直憲が7代藩主に就任した。
事件時に供奉した藩士26人(総勢64人)のうち、犠牲となった藩士は8名であったが、事件から2年後、重傷者の6名は藩領の下野国佐野へ配流され揚屋に幽閉された。また、軽傷の者は切腹、無傷の者は斬首・家名断絶という厳しい処罰が下された。
直弼の次女・千代子は高松藩主の松平頼聰の正室で文久3年(1863)に離縁されたが、明治5年(1872)に復縁している。事件後の井伊家の関係者は、時代に翻弄され続けた。
桜田門外の変で襲撃犯は18名に上ったが、1名の薩摩藩出身者を除くと、すべてが水戸藩の出身者であった。
その状況に至るには、直弼と水戸藩との確執、特に徳川斉昭(なりあき:前藩主で実権を握っていた)と直弼の対立が関係していた。
対立は、将軍継嗣問題までさかのぼる。
13代将軍の家定は暗愚であり、外国の脅威に立ち向かうには不適とされ、次期将軍を誰にすべきかが議論されていた。
徳川斉昭は英明で人望があるとして、実子・一橋慶喜を推し、越前藩主・松平春嶽と薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)らと一橋派を形成した。
一方で、直弼はあくまでも血統を重視し、紀州藩の徳川家茂を推して南紀派を形成し、両派は激しい抗争を展開した。
安政5年(1858)4月2日、直弼が大老に就任すると事態は動く。
6月19日、朝廷の勅許を待たずに日米修好通商条約調印。24日、斉昭ら一橋派の大名が不時登城し、直弼に無断調印を面責した。
これは、将軍継嗣の公表を遅らせる深謀であったが、それに対し直弼の反撃が始まった。
7月5日、不時登城を口実に斉昭らに対して、隠居謹慎が沙汰されるなど厳罰が下された。
厳罰に反発した水戸藩士は、朝廷に接近する。
8月8日に勅許なく条約に調印したことを強く非難し、御三家および諸藩には幕府に協力して公武合体の実を挙げること、幕府には攘夷推進の幕政改革を成し遂げることを命じた【戊午の密勅】を水戸藩に下賜することに成功。
孝明天皇が直弼を叱り付ける形となった。
伝達方法だけでなく、内容的にも幕府の面目は丸つぶれとなり、直弼の激怒は計り知れなかった。
直弼は斉昭が黒幕と睨んで、何とか証拠を見つけて罰するために、徹底的な捜査を命令し、安政の大獄が勃発(という見方もある)。結局、斉昭の関与は証明できなかったものの、捜査範囲は広がり続け、未曽有の大弾圧事件に発展して処罰者は百人を超えた。
これに対する水戸藩の反撃こそ、桜田門外の変であった。