戊午の密勅

戊午の密勅〜天皇から幕府への怒り

戊午の密勅(ぼごのみっちょく)は安政5年8月8日(1858年9月14日)、孝明天皇より、日米修好通商条約の無勅許調印を受けての幕政改革を指示する勅諚(勅書)が、徳川幕府を飛び越えて水戸藩に直接下された出来事。これを受け、井伊直弼は激怒した。

目次

無勅許調印に孝明天皇が激怒

日米修好通商条約に朝廷の許可を得ず調印した直弼

第14代将軍の座を巡る南紀派と一橋派の争いは、井伊直弼が大老になったことで南紀派が有利と思われた。しかし、幕府(井伊直弼政権)が独断で行った日米修好通商条約調印が孝明天皇の逆鱗に触れ、波紋を呼ぶことになる。

アメリカから条約調印に対しての圧力

1856年、米ハリスが通商条約の締結を要求

安政元年(1854)3月、日本を再び訪れたペリーとの間に日米和親条約が調印され、安政3年(1856)にはアメリカ総領事として来日したハリスが、通商条約の締結を要求するようになる。

幕府は条約調印する為に勅許を求めるが…

老中首座・阿部正弘を中心とする幕閣は、すでに通商交易を開始する方針を決定しつつあった。
安政4年(1857)6月に病死した阿部に替わり、老中・堀田正睦が難局を担う。
堀田は安政5年(1858)に入る頃には条約内容を具体化させ、京都の天皇に対して、事前に勅許を求めるため、上京した。

朝廷は条約調印の許可を出さず

楽観的だった幕府と、決断できない朝廷

堀田以下は当初、勅許を得ることについて、楽観的だったが、案に相違して天皇以下の公家たちは勅許を拒んだ。
3月20日、堀田に下された勅書には、将軍からの要請だけで勅許を下すことは出来ない、外様・譜代を含めた諸大名の衆議に基づいて再度申し出るように、とあった。

井伊直弼が大老に就任

直弼が調印ふくめ政権を預かる身となる

これを受けて堀田以下は江戸に戻るほかやり様がなかった。それは将軍・家定にとっても非常事態であり、4月23日、井伊直弼が大老に任ぜられた。
直弼は、通商条約調印問題についても、最高責任を負う立場になったのである。

直弼が無勅許で条約に調印、開国を断行する

大老・井伊体制の下、まず将軍継嗣問題に決着がつけられた。家定・直弼は5月初めに、紀伊慶福(よしとみ)を継嗣とすることを公表したのである。
ついで6月1日、ハリスの強要にあって、直弼はやむをえず、勅許を得ないまま、通商条約調印を認めた。

戊午の密勅〜天皇から怒りのメッセージ

無勅許調印に驚き、将軍と水戸家に勅書を下す

無勅許条約調印の報告を受けて驚き、かつ怒った孝明天皇は8月8日、将軍と水戸家にあてて勅書を下し、将軍側の処置を難詰した。

「皆でしっかり話し合って決めるように」とのこと

その内容は、通商条約調印については諸大名衆議に基づくようにと、言っておいたのに、それに背いたのは「軽率の取り計らい」であり、はなはだ不審である、かれこれ国家の大事であるから、大老・老中はもとより、三家(尾張・紀伊・水戸)・三卿(一橋・田安・清水)・家門(徳川家の親戚で松平氏)・外様・譜代ともに、「一同群議評定」して事態に対処せよ、というものである。
さらに、水戸家にあてた別勅には、この内容を「列藩一同」にも伝達せよ、とあった。

幕府も屈する訳にはいかず

孝明天皇は幕府から実権を奪おうとしていた?

このような勅書を、天皇がいきなり武家に向けて発するのは異例である。
また、もともと、徳川将軍の政府では、老中以下の役職に就くのは、直臣としての譜代大名か旗本であり、親戚筋の家門大名や外様大名は、国事に関わることがなかった
したがって、この勅書の言うとおりにすると、将軍と譜代が国事を独占する政治の体制そのものが大きく変わることになってしまう。

老中・間部詮勝が釈明のため京都へ向かう

直弼は、水戸家に命じて、勅書の諸藩への伝達を差し止め、条約調印に至った事情を釈明するため、老中の間部詮勝を上京させた。
この勅書は安政5年の干支にちなんで、「戊午の密勅」と呼ばれる。


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